「 円空 〜旅して、彫って、祈って〜」へ。
仏像にまみれてきました。
観音三十三応現身立像
むかし、仏像にはまってお寺を巡っていた時期がありました。
年月を経て、仏像の前にいる自分が違っていました。
なんて言うんだろうか…
昔は、仏像の姿に美しさを感じていたのが、
今は、仏像に祈りを感じるのです。
彫る人の祈り、手を合わせる人の祈り、
手を合わせる人の祈りを思い彫る祈り。
そういう祈りの前に立っている感覚。
自分の中にある祈りに目を向けると同時に、
人の中に宿る、祈りという概念。
生きることへの必死さと希望、希望を求める心というか…、
弱さを抱えて揺らぎながら、
生きようとする人の祈りへの、切なさや愛しさ。
護法神立像
…なんて、人の祈りについて考えながら、
すこし離れて見ると、
木彫りの仏像から、仏の姿が立ち現れたようではっとしました。
狛犬
祈る人の目の先に、仏の姿が表れる。
そう思い、感じてから見ると、
円空の、祈る人の心を思う円空の祈りが、しみじみと染みてきて。
あてどない切なさや愛おしさが、心の中にいっそう濃く湧いてきました。
両面宿儺座像
JUGEMテーマ:美術鑑賞
]]>3月17日(日)の紙面「産經書房」とデジタル版への同時掲載です。
記者の客観的な視点で端的に表すと比嘉正子さんはこうなるのかと。
取材の積み重ねで、もはや頭の中で3Dで動いている比嘉正子さんが、
シュッとポートレートになって見えました。
敗戦間もない大阪で、子どもたちの生命を守るため
「お米をください」と時の絶対権力GHQに乗り込み直談判した比嘉正子さん。
戦後の混乱の中、おかみさん(主婦)たちの小さな力を集めて、
生活を守るために奔走した人。
昭和6(1931)年に比嘉正子さんが大阪市の都島で
公園を園舎にはじめた青空保育園。
それは託児所と幼稚園の機能を合わせもつ福祉的幼稚園で、
平成27(2015)年に少子化対策として始まった
幼保連携型認定こども園の原型ともいえるものでした。
このblogの「日々を織る|Person6 安心して生んで老いていける町へ』に連載。
「家庭がどうこうあろうと、子どもたちは平等だ」と、
子どもたちが等しく可能性を拓いていく「子どもたちの館」をつくり、
保育を軸にした地域づくりに邁進した人、比嘉正子。
常に弱い立場の人とともに立つ社会事業家、比嘉正子は
日本の消費者運動の生みの親、
実践によって消費者運動を日本社会の中に根づかせた人でもありました。
生活を守るために、生活者の立場から現実を動かし続けた比嘉正子が
より多くの人に知ってもらえるように。
大同団結をモットーに、権力を倒すのではなく味方に変えて、
子どもたちを、弱き者を守るために闘いつづけた比嘉正子の軌跡を描いた
『比嘉正子 GHQに勝った愛』が、
一人でも多くの人に読んでいただけることを願うばかりです。
編集の方が送ってくださった紀伊國屋書店・梅田店の
書架に並ぶ『比嘉正子 GHQに勝った愛』。
賢そうな本たちと並んでいる…こてこての大阪弁満載なんだけど…
産經新聞デジタル版、書評『比嘉正子 GHQに勝った愛』へはこちらから。
JUGEMテーマ:本の紹介
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日曜日なので混雑を覚悟していましたが、
雨の日の朝一だったせいか、
近づいたり離れたりしながら、思いのほか
一点一点ゆっくりと見ることができました。
空や雲や水には、こんなにも油画かな色が存在しているのかと、
光とともに映し出される情景に魅入ってきました。
実際に絵の前に立った時の、
画家の姿を想像しながら、その情景の中に誘われるような独得の感覚。
時を超えることができる瞬間を、味わってきました。
近くで見える、筆づかい。一筆ごとの色づかい。
そして離れて見える、光の煌めき、あわいを含んだ色彩の美しさ。
見えない空気を見せてくれるような、光と色。
時空を超えて、その瞬間の光に包まれているようでした。
JUGEMテーマ:美術鑑賞
昨年11月、大阪府社会福祉協議会の従事者部会 集団指導者養成教室で
講師を担当させていただいたセミナー&ワークショップ、
「ブランディングで仕事の魅力を掘り起こす」についての記事が、
「ワークショップ|福祉施設×ブランディング」というタイトルで、
以前、このblogにも記事をアップした研修会です。
「ブランドは人柄」というフランセの考え方を受けとめてくださった
参加者からの声に触れ、
午後からの仕事のモチベーションが急上昇いたしました。
従事者部会のインスタグラム @jyujisyabukai にもアップしてくださっています。
福祉の現場の方々の、ご自身の仕事への誇りと責任感が、
利用者の方々、そのご家族、
そして地域の人たちのQOL向上につながる。
ブランディングにはその一助となる力があるという思いを
受けとめてくださった方がいるのだと勇気づけられます。
文章という抽象的な仕事が、誰かの生活の小さな力になるのだと信じて、
自分にできる小さなことを重ねていこうと気持ちを強くしています。
大阪府社会福祉協議会 研修報告(参加者の声)の記事URLはこちら
https://www.osakafusyakyo.or.jp/jujishabukai/cms/article.php?cat=1&id=110
]]>
「出版のお祝い!」と、友だちが贈ってくれたプリザーブドフラワー。
自分のことのように、一緒になって喜んでくれる気持ちがうれしくて。
そのうれしさが、自分のなかの喜びを大きくしてくれました。
やっとスタートラインについたと、
喜びよりも緊張感が勝っていた気持ちが、ふわっとほぐれて、
そうだ、私はうれしいんだと、ジーンときました。
友情と喜びと感謝が、ぎゅっと詰まった花。
頼んであったケースがやっと届いたのでさっそく、飾ります。
力を合わせてくださった方々、よろこんでくださった方々。
孤独さと、人の中にあるという喜びと。
お祝いしてもらった時の、あのうれしさ。
出版が決まったとき、本ができたとき、発行を迎えた日の喜び。
ここにくるまでの、いろいろな思い。
すべての思いが、「感謝しかない」という言葉になって
腹の底に座っています。
この文章を書いている間に、
いろいろな人の顔が浮かび、いろいろな言葉が思い出されます。
日々の慌ただしさに、この思いを褪せさせることのないように。
大切な大切な宝物です。
ありがとう。
JUGEMテーマ:エッセイ
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京都「えき」、イッタラ展へ。
すること、いっぱい。やる気もある。
しかし、頭の中がわちゃわちゃで落ち着かない。
これはもう、頭の風通しだと、いただいた招待券を手に出かけてきました。
一つひとつの作品に、魅入りました。
フォルム、色、透き通るガラスをとおして生まれる光と影。
吸い込まれるような感覚に身を委ねていると、心が凪いでいきました。
しーんと、心が澄んでいくのを感じました。
なかでも「氷上釣りの穴」というオブジェには強く心惹かれ、
ほんとうに作品のなかに吸いこまれていきました。
どこまでも広がる、氷の、透き通る地平の上に立ち、
深部へとつながる穴の向うに果てしない大自然を感じるような。
別世界へと旅をするような時間がそこにありました。
美学や哲学、概念が形になって目の前にある。
なんだかすごい世界に浸ってきました。
イッタラの世界を伝える案内の文章も、
皆川明さんや隈研吾さんのインタビューも、
しーんと凪いだ心に染みていきました。
そして本棚に、大好きな本がまた一冊増えました。
ゆっくりとした時間に、イッタラの世界観を表すエッセイを読むのも楽しみです。
しーんと静まった心持ちで見上げた夕暮れ前の空も美しかった。
JUGEMテーマ:美術鑑賞
]]>3月5日、著書が出版されます。
『比嘉正子 GHQに勝った愛」というノンフィクション小説です。
敗戦直後の大阪で、子どもたちの生命を守るため
GHQに「お米をください」と直談判に乗り込んだ女性がいました。
名もなき小さな力を集めて、生活者を守るために闘い、
やがて政財界で一目を置かれる存在として改革の風を吹き込んだ彼女の軌跡は、
今の私たちの生活の中に残っています。
行動によって現実を変え続けた比嘉正子という人物に惹かれ
取材を始めてから2年半、一冊の本になりました。
大同団結をモットーに、将来の生活者の視点をもって
現実を明るい方へと変えていくのだと、行動し続けた人。
将来の子どもたちに、より良い社会を残すために闘い続けた
比嘉正子という愛の人の物語。
彼女の愛が、一人でも人に届きますように。
JUGEMテーマ:本の紹介
]]>「大阪府社会協議会 従事者部会 集団指導者養成教室」なる研修会で
ワークショップの伴走者をつとめてまいりました。
『ブランディングで仕事の魅力を掘り起こす』というタイトルで、
人材の育成と定着という課題に
インナーブランディングの手法でアプローチする試みでした。
福祉法人のブランディングに携わり
福祉の現場の方々とお話するようになって10年あまり。
専門的な知識と技術、そして経験に鍛えられた想像力と創意工夫で、
日々、乳児からお年寄りまで、障がいの有無も含めて様々な人たちと向き合っている
福祉の仕事について、1つまた1つと知るたびに、
その仕事の大変さ、難しさ、素晴らしさに感服してきました。
ワークショップにむけてレクチャーからスタート
その仕事の魅力、素晴らしさを再発見、再認識していただく。
そして現場のお一人おひとりがその魅力と素晴らしさを担っているのだと
自覚と誇りをもっていただく。
その一助として、インナーブランディングを役立てていただきたい思いでの
ワークショップでした。
自分の仕事が好き、福祉の仕事が好き。
そういう人に出会った利用者は、きっと生活が楽しくなると思います。
日々の生活が楽しくなれば、人生が豊かになる。
福祉の仕事は人を幸せにする仕事だと、
福祉施設を訪ねた時にお会いする利用者の方々の笑顔に、
その感想は思い込みではないと実感してきました。
ほんの数時間をそこで過ごす外の者と、
責任を担う内の人との感覚は違うと思います。
けど、誰かの生活を楽しくしているのだと、
外の者との出会いで感じていただくことは悪くないんじゃないかなと、
講師のお話をいただいたときからワクワクしていました。
参加者の交流も兼ねたワークショップ
グループを1つの法人と見立て、メンバーそれぞれが一施設の責任者。
そういう設定で、ブランドビジョンを明確に言葉化し、
ブランディングの重要な要素の1つであるブランドカラーを決定。
私自身がクライアントのブランドストーリーを構築し描いていくプロセスを
凝縮したプログラムで、
ブランドストーリーを発信していく軸づくりを体験していただきました。
ワークショップに向けて、
ブランドやブランディングに対する考えを共有するレクチャーと
プレゼンテーションを含めて3時間30分。
タイトなタイムスケジュールだとも思いつつ、
ぜひ体験していただきたいことを詰め込みました。
活気にみちたワークショップ
ファシリテーションで伴走
ワーク中、ファシリテーターとして会場を周り、
話し合いに参加する中でいろんな意見に触れ、
あらためて福祉の現場の力に感じ入りました。
問いかければ必ず、明快な答えが返ってくる。
それは皆さんの日々の仕事の密度や思いの強さの表れのように思いました。
全員参加のプレゼンテーション
施設の利用者や地域社会との信頼関係を
日々の仕事の中で築いていらっしゃる福祉施設は、
どこも既にブランドなんだと私は思っています。
ただそれを、意識してマネジメントしていくかどうか。
それが福祉施設の、ブランディングの次のステップなのだと思います。
皆さんのプレゼンテーションに感じ入ってのクロージング
運営陣とご参加者と一体になってつくったワークショップ。
普段の仕事とは、すこし違ったチームワーク。
楽しかったです。
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香りからのインスピレーションで描かれた作品展。
まず、視覚だけで絵画を鑑賞し、
次に、インスピレーションのもととなった香りをかいで鑑賞。
香りとイメージが自分のなかで混ざりあっていく過程を楽しむ。
同じ香りから描き出される世界の異なり。
イメージの多様な広がりを目の前に、
クリエイティビティというものの自由さをあらためて知る。
表現の自由というものが意味するところは、この無限性ではないだろうか。
感性に枷をつけることなく表現していく。
その表現の方法を模索するなかで、
それぞれが自身の倫理や自己と向きあい
自分のあり方、姿の一端として作品をつくりあげていく。
ここまでの過程をすべて含めて表現の自由だ。
絵画も、造形も、書も、文章も、演劇、舞踏、音楽も、
形式に違いはあっても、
それが、あらゆる表現において共通する自由ではないだろうか。
もしかしたら、ビジネスにおいても同じかもしれないとここまで書いてふと思った。
人が自分のなかに生まれた思考やイメージを
なんらかの形で他者と共有するためにアウトプットする行為を表現と呼ぶとして。
そして、通りすがりの小さなアート展をきっかけに広がっていく考えを
言葉に変えているいま、表現の自由を楽しんでいるのだなと思うこの瞬間、
絵画とともに味わった香りが鼻腔の奥に甦ってきた。
視覚だけで好きだなという感覚と、
香りからのインスピレーション、描く世界観への好きだなという感覚が
重なるのがまた面白かったなと思い出しながら。
香りそのものとの段差と、
ああ、そうかと、官能的にすっと自分のなかに馴染む感覚との
心地よい刺激のあった作品が、より強く記憶に残っている。
※展示作品の写真は、会場となっている施設のインフォメーションで
私個人のSNSなどへの掲載の範囲で許可をいただいたものです。
JUGEMテーマ:エッセイ
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1月は行く、2月は逃げる、3月は去る、と言うけれど。
昔からそう言うのやと、祖母もよくそう話していたけれど。
いやほんとうに、行く姿も、逃げる姿も目にもとまらぬ速さで
駆け抜けて行った2022年の1月、2月。
何をしていたっけと振り返ると、いろいろしていた。
いろいろしていたのだけど、何もできていないような気にもなる。
一つひとつを重ねてきたのだけど、
時が駆け抜ける速さの前で蹴散らかされて何もできていないような気になる。
取材を重ねて、情報を編集し、プロットを構想し、
一文字ひと文字を選んで繋いでいく。
遅々と重ねるそんな歩みが、時の速さの前に蹴散らかされていくような
切ない気持ちになってしまった。
いや、焦らなくていい、確実に積み上げていく原稿が時の証だ。
ほんの数日前の雛祭りも遠い昔の思うほど毎日が速いけど、
雛飾りの名残りだって、まだそこにある。
慌ただしく出かけ、慌ただしく帰ってきた今日も、
花は静かに咲っていた。
扉を開けると花が咲っていて、「ただいま」の瞬間がはんなりする。
大丈夫。
このはんなりのなかに留まる数秒があるのだから、まだ大丈夫。
JUGEMテーマ:日々の切れ端
朝ごはんの片付けをして、小豆を茹でる。
あちらこちらの戸を開け放して掃除をしているので、
小豆が煮えていく香りが家中を満たしていく。
ほわほわとあたたかい気もちになる。
掃除をすませると小豆がちょうどよい具合に煮えている。
豆と茹で汁を、それぞれタッパウエアーに分ける。
研いだ米も、冷蔵庫にしまう。
小豆粥の下ごしらえができたところで、
鏡開きの日からしまってあった正月飾りを玄関に揃える。
しめ飾りと、松の枝、南天の枝、葉牡丹。
玄関や和室に、正月の華やぎの名残をくれている
色とりどりの菊や千両の枝は一輪挿しにそのまま挿しておく。
身支度をして、近くの神社のとんど焼きへ。
火の番の男性に手渡すと、
お焚き上げの火の中で稲わらが勢いよく燃えて、
すっと清々しい気持ちになる。
そのまま父の眠るお寺への初詣。
ご本尊をはじめ、日ごろ奥におられる秘仏がご開帳で、
手を合わせていると心が自然と沈黙していった。
ただ、沈黙してそこにいる。
心も頭も沈黙に明け渡して、そこにいる。
そしてお参りのあと、
ご本堂にお供えしていただいていた鏡開きの餅を頂戴する。
しーんと静かになっていた心が、うきうきとしだす。
家に戻るとちょうど昼時。
超特急で着替えをすませて台所へ。
朝からの準備万端はこのためなのだ。
材料の下ごしらえだけでなく、土鍋まで棚から出して置いてある。
朝に続いて、再び台所から居間へと小豆の香りが溢れだす。
お腹グーグーである。
そろそろ粥が炊きあがるというところで、いただいたばかりの餅を焼く。
炊きあがった小豆粥を器によそう。
思いのほか、いや、思っていたとおり、
たっぷり炊きあがった小豆粥の器は丼鉢である。
丼飯ならぬ丼粥である。
そのたっぷりの粥の真ん中に粥柱の餅をのせる。
おお、まん丸の望月である。
無病息災であることの有り難さを思い知らされたこの2年間。
この一年もまた、健やかに、
三度の食事をおいしくいただける日々でありますように。
JUGEMテーマ:エッセイ
明けましておめでとうございます。
日の出間近の白みはじめた空を、
東、北、西、南と大きな円を描いて雁の群れがぐるりぐるりと飛んでいた。
川面には横一列に並んだ4羽の鴨がL字に水紋をなびかせていた。
鳥たちの鳴き声が冴えた風にのって響いていた。
川の西側に建つ高層ビルのガラスの壁面がオレンジに輝きはじめた。
通りすがりのご婦人が「ご来光ですか」と東を仰ぐ私の隣に並ばれた。
朱い光を放ちはじめた彼方の雲に手を合わせたあと、
良い一年になりますようにと願いあった。
明るくやさしい元旦の朝だった。
朗らかな一年となりますように。
JUGEMテーマ:エッセイ
]]>消費という行為はセルフプロデュースだ。
何を買い、どう使っていくか、
その行為、過程のすべては自己表現だ。
たとえばフェアトレードによる商品を選ぶというような
日常生活のなかにもある意思表示なのだ。
これは消費者として、
カスタマーに向けての情報発信に携わる職業人として、
ずっと根底にある考えの一つだ。
先日、この考えを共にできる人たちに出会った。
廃棄処分となった波佐見焼きのアップサイクルに取り組んでいる女性たちだ。
彼女たちは、今年の夏、
廃材となった波佐見焼きをテラゾとしてアップサイクルする
プロジェクト”Utte”を立ち上げ、商品化に取り組んでおられる。
プロジェクトチームのメンバーは4人。
波佐見焼きの生地づくりと形成、絵付けに従事している
裏邊彩子さんと裏邊恵さん。
長崎県窯業試験場の研究員を務める石原靖世さん。
そして、このプロジェクトの発起人で、
オランダを拠点に活動するインテリアデザイナー
本村らん子さん、だ。
テラゾは500年以上前にイタリアで生まれた人工大理石。
砕いた大理石などの石材を
白色のコンクリートに混ぜて固めて表面を研磨した資材で、
艶やかで滑らかな質感はまさに人工大理石だ。
彼女たちのプロジェクト”Utte”は
廃材となった波佐見焼きを活用して、
波佐見生まれのテラゾを生むというものだ。
波佐見焼きは慶長4(1599)年、長崎県の波佐見の村で生まれた。
村で採掘した陶石を生地にして大きな登り窯で焼く波佐見焼きは
大量生産が可能な上に丈夫で、当時、高級品であった磁器を庶民に普及させた。
江戸時代、摂津の国(大阪)で、
淀川を往来する大型の船を相手に煮売りの小船が
「飯食らわんか」「酒食らわんか」と
売り声をあげて食べ物や飲み物を売っていた。
その売り声から、この小舟を”食らわんか船”と、
そこで使う器を”食らわんか碗”と呼ぶようになった。
この”食らわんか碗”には、揺れる船でも安定する厚手で重心が低い陶磁器である
長崎の波佐見焼き、愛知の砥部焼、大阪の古曽部焼が使われた。
そして割れにくく、素朴な絵付けを施した波佐見焼きは人々に好まれ、
庶民にも手の届く磁器として普及していった。
こうして波佐見焼きは、江戸時代から
日常生活のなかの磁器、食卓の器として愛され続け、
今も私たちの暮らしのなかに息づいている。
この波佐見焼きを新しいプロダクトとして
アップサイクルしようとしているのが、
彼女たちの”Utte"プロジェクトだ。
日常使いの磁器として愛される波佐見焼きは大量生産される。
その生産量に応じて欠品の数も少なくない。
ヒビが入っている、成形や絵付けに不具合があるなどではなく、
たとえば陶石の成分である鉄の色が小さなシミのように表れても
商社から返品されるものもある。
そして、欠品となった焼き物はすべて廃棄される。
釉薬をかけた磁器は土に返すことはできない。
山から採掘する陶石や大量の水。
生産過程で使った資源は、そのままゴミとして棄てられていく。
陶石を抱く山は採掘のごとに痩せていき、
廃棄処理場となった山では地盤沈下が起きている。
自然の恵みをいただいて物をつくる自分たちの行為が、自然を傷めている。
そんな思いを胸のどこかに抱えながら、職人たちは商品をつくり続けている。
陶石を採掘し、石を砕き、生地をつくり、成形し、
絵付けをし、釉薬をかけ、窯に入れ、焼き上げる。
自分たちが焼いた器を喜ぶ人たちがあって、その仕事は喜びを与えられる。
使われることなく、誰の喜びも受けることなく廃棄されていく器が自然を傷めるとき、
物づくりを愛し、物づくりに生きる人たちの心も痛んでいる。
そして波佐見焼きの職人たちの胸中には将来への不安もよぎっている。
山から採れる陶石は限りある資源だ。
それをただ廃棄物に変えていくサイクルをこのまま続けていっていいのか。
数百年の歴史をもつ波佐見の磁器づくりは産業として継続していけるのか。
そんな思いのなかから生まれたのが、
廃材となった波佐見焼きをアップサイクルするテラゾだ。
粉砕した陶片は、呉須(ゴス)と呼ばれる伝統的な染料の藍色、
若い感性による絵付けのカラフルな色、
そして成形に用いる石膏型の白と、色彩豊かだ。
研磨した面に表れる色模様は、
一度、磁器になった温かみを帯びて、やわらかい。
この波佐見生まれのテラゾを、
どう人の暮らしのなかに生かしていくのか。
これから、テラゾタイルをはじめ、
家具や雑貨などのプロダクトとして展開していく。
食卓から住空間全体へ、
アップサイクルによって波佐見焼きを
どんな風に人の暮らしのなかに届けていくのか。
生まれたばかりのプロジェクト”Utte”は可能性の模索中だ。
そしてもう一つ、この”Utte”プロジェクトには、
プロダクトを通じてメッセージを伝えるという願いがある。
「大量生産化社会は生産者がストップすれば解決する問題ではありません。
これは消費を促すビジネスや商社、また消費者一人一人に責任があり、
ものを作るということ、消費するという事に、
どれほどの意識を向けることができるのかが、
解決方法の糸口に繋がると私は信じています」
このメッセージ、この願いは、
消費はセルフプロデュースであり、自己表現だという考えと繋がっている。
このメッセージに記された思いを知ったとき、
現実に起こっていること、それについて思っていることを
淡々と話される言葉の一つひとつがなぜ浸みてきたのか、
このプロジェクトになぜ心惹かれたのか、腑に落ちた。
消費が破壊であるなら、私たちの未来はどうなるのだろう。
「地球は子孫からの借り物」
ずいぶんと昔、20代の頃に読んだ本で出会った言葉だ。
著者の名前も本のタイトルも思い出せないのだが、
この言葉だけが心に残っている。
インターネットで調べると、
ネイティブ・アメリカの言葉 ”We borrow it from our children.”だとあった。
消費という行為は、セルフプロデュースであり自己表現である。
自分がどんな人間でありたいのか、あろうとするのか。
消費という行為は、自分と向き合う機会だ。
友人にプレゼントを贈るとき、
その人は何が好きで、何を大切にし、何を喜ぶかを考える。
自分に向けても同じようにしてやる。
そうして、自分が喜ぶものを選んでいく。
現実の生活の中で、常にベストを手に入れられるわけではないが、
選ぶことをなおざりにしないことはできる。
選び、所有し、使い、そして破棄するところまで、
自分で選べる限り、その選択を放棄しない。
食卓の小さなお皿1枚、水を飲むグラス1個、箸1膳、箸置き1個、
そういう細やかな物を一つひとつ選んでいく。
そこから暮らしは変わっていく。
どんな人がどんな風に作り、どんな風に店先まで届けられたのか。
そういうことに、ほんの少し思いを寄せて、選んでいく。
生活のなかの、そんな細やかな自己表現が、
自分の暮らしを形づくっていくと同時に、
消費者と生産者と流通者たちがフラットに繋がり、
消費を破壊ではなく創造へと繋いでいく、
自分たちが暮らしていきたいと思う社会や環境をつくっていく
ひとつの糸口になるのではないだろうか。
そんなことを考えさせてくれた”Utte”というプロジェクト。
子孫に借りている地球に蒔いたその一粒の種が、
豊かに実っている明日を想う。
波佐見の山 (写真提供:"Utte" プロジェクトチーム)
instagram : utte_hasami
参考Website
◎波佐見陶磁器工業共同組合
http://www.hasamiyaki.or.jp/porserin/index.html
◎Wikipedia
JUGEMテーマ:エッセイ
]]>☆「日々を織る」 福祉の現場に生きる人たちのルポルタージュ ☆
<コラム> 「安心して生んで老いていける町」への思い 1/2
施設から地域へ、を最大目標に障害者の自立支援をする
坪井絵理子さん<繋がるために>。
地域で暮らしはじめたら、施設の利用者ではなくなる。
それはもう彼女たち施設の支援の手を離れるということだ。
今までどおり、いざというときの手助けはできない。
してはならないのだ。
だから彼女は、地域の施設を訪ねて歩く、顔見知りになる。
もしも、地域に送り出した利用者が、自分たちの知らない間に
どこかの施設に戻ることになったとき、
その新しい施設と、古巣である自分たち施設に繋がりがあって
連携の可能性ができれば、自立への再挑戦の助けになる。
間接的に支援を続けられる。
だから、「繋がるために」できることをしている。
福祉法人とのご縁が生まれて間もなく伺ったこの話に、
福祉という仕事の本質を教えられたようだった。
障害者の就労支援をする北井陽子さん<囲いを打ち破る>。
彼女が障害者福祉の世界に入ったのは子育てを終えてから。
福祉のふの字も知らない自分に務まるのなら、
障害者の暮らしが垣根の向こうの特別なことではないという証明になる。
学生時代から胸にあったノーマライゼーションへの思いから、
授産施設の責任者として第2のキャリアをはじめた。
利用者と職員の、やってください、やってあげますの関係に違和を覚え、
職員は、利用者が自分でやるための伴走者という方針をたてた。
古参の職員たちの反発、利用者の家族からの不安の声に対話で応えた。
そして、北井さんの言うことなら、することなら信じていいという
関係をつくりあげた。
「福祉の仕事の魅力は、仕事をとおして人というものが好きになれること」。
いちばんの障害は人と人との隔てにあると、教えられた。
法人が運営する十数の施設の統括をしていた永棟真子さん
福祉施設の方と話すなかで、普段よりもよく耳にした人権という言葉。
「人権って何なんでしょう」と、
その重く、かたい言葉について彼女に訊ねてみた。
「ものごとを、自分の意思で決められることやん」と、
間髪入れずに返ってきた。
障害があってできないことがあれば、できるようなやり方を考える。
その知恵を絞る、工夫を重ねる。それが支援の仕事。
「すべて、当事者からはじまる」。
人は誰しも、何でもすべてができるわけではない。
できることと、できないことがある。
そのできることの質と量に違いがある。
そして、障害者はできることの範囲が著しく狭まっている。
狭まっている状況そのものが障害と言うべきか。
だから、当事者の立場に身を置いて、
選択肢を増やし、可能性を広げていく。
福祉の仕事とは、なんとクリエイティビティに溢れているのかと、
強く思った。
社会福祉協議会でのキャリアの後、
高齢者福祉施設を運営する法人本部の主任として働きはじめた
鈴木貴子さん<居場所をつむぐ>。
「それまで懸命に生きてきた人が、人生の最期をどう過ごすかの大切さ」。
地域福祉のあり方を整えていくマネジメントの分野から、
現場へと足の置き所を変えたとき、彼女の心のなかにあった思い。
それは人の尊厳への思いだ。
そしてこの思いは、採用担当者として施設の中の人たちへも向けられる。
採用した人たちの居場所をつくる、「人から人へ」の人事。
人と人が信頼しあう職場の環境はそのまま
利用者さんが暮らす環境に結びついていく。
「人から人へ」繋がっていく思いやり、あたたかさ。
原稿を書きながら、人事は、福祉そのものだと思った。
人がそこにいることを喜べる環境をつくる。
これは一般企業においても同じことではないか。
人事部門は組織のなかの福祉部門だったのかと。
福祉は特別な場所にあるのではないという言葉に、
新しい意味を見つけた瞬間だった。
明治、大正、昭和にかけて大阪の社会事業を牽引してきた
中村三徳さんが設立した社会福祉法人の
第5代理事長を務める荒井恵一さん<社会のインフラとして>。
福祉施設から福祉事業へと、言葉を変えてはどうだろうか。
施設という言葉が自分たちの仕事を
建物のなかに閉じ込めているのではないか。
福祉とは本来、地域のなかにあるものだ。
施設は福祉事業を行うためのステーションである。
何かあったらとりあえず、ちょっと話聞いてくれるかと、
下駄履きで来られる場所が地域のなかの施設の役割。
その考えを象徴する、
福祉は「社会のインフラ」という荒井さんの言葉。
福祉とは無関係だと思いながら暮らしている日常は
福祉というセイフティネットのうえに安んじていると。
安心して生んで老いていける町、という言葉の種が
心に芽生えたときだった。
昭和のはじめ、保育所と幼稚園がいっしょになった
福祉的幼稚園を創設した比嘉正子さんの心を承継する
渡久地歌子さん<安心して生んで老いていける町>。
0歳から5歳、三つ子の魂が育つ時期は
子どもたちの将来の礎になる。
その可能性を広げる機会を子どもたちに提供する。
「どうこうあろうと子どもたちは平等だ」と、
子どもたちが機会の平等を得るための館をつくる。
保育を軸に地域共同体を築いてきた創設者の心を生きるように
承継した事業を育ててきた渡久地さん。
医療と福祉の町というコンセプトによる町づくりの一翼を担い、
保育と高齢者福祉を地域で展開している。
そして法人が運営する施設には
子どもを真ん中に町の人たちが集まっている。
「安心して生んで老いていける町」の姿がここにあると思った。
お一人おひとりの出会いに、福祉というものを教えられた。
仕事で福祉法人とのご縁が生まれたとき、
福祉のことを学びたいと思った。
福祉の姿、福祉の心をすこしで知りたいと思った。
高齢化する親、その次にくる自分の高齢化、
友人たち、そして自分自身にもそう遠いできことではない
福祉への関心もあった。
福祉の現場で生きる人たちのストーリーを書いてみたいと思った。
その思いを受けとめてくださった方々のおかげで、
このルポルタージュ「日々を織る」を書き進めてこられた。
6名の方のストーリーを合わせると、13万文字を越える。
話してくださった心に近づけているだろうか、
その思いをちゃんと汲み取っているだろうか、
その方の人柄を表せているだろうか。
そう思いながら言葉を選んで記す一文字ひと文字が、
福祉の姿、福祉の心を教えてくれた。
自分なりの考え方というものを養ってくれたと思う。
できることを見つけて、一つ一つ、行い続けていく。
それはまさしく、日々を織ることだ。
伴走者として、相対する人に目を凝らし、耳を傾けて、
急かさず、焦らず、止まることなく、今日という日を重ねていく。
そして、その先へと眼差しをむけて動き続ける。
高い専門性の知識と技術、経験、そして何よりの福祉の心。
福祉が町の真ん中にあれば、人は安心して生んで老いていける。
医療と福祉の町というコンセプトによる町づくりの一翼を
福祉法人が担っているという話は、
まさしく安心して生んで老いていける町を育てていくというものだった。
そう、地域の人たちが一緒に町を育てていく。
その中心に、福祉の専門家たちがいる。
確かな理論を、福祉の心で実践してきた人たちの知識と技術が
人と人を繋ぐ真ん中にある。
思えば、福祉事業は社会事業だ。
人が豊かに暮らせる社会の姿を考え、築いていく事業だ。
町づくりを考えるとき、そこに社会福祉が真ん中にあるのは
しごく真っ当なことなのだ。
安心して生んで老いていける町。
コロナウイルス感染症のパンデミックで生活様式が激変した。
with コロナ、after コロナの新しい暮らし方という言葉が生まれた。
一人ひとりの新しい暮らし方は、新しい社会の姿だ。
これからの社会は、どんな価値観を持つのか、
どんな風に人の暮らしのあり方を見つめていくのか。
社会が変化していこうとする今、
人の暮らしを考える社会福祉を真ん中に町の姿を考えていく
安心して生んで老いていける町という言葉が
いっそう強く胸に響いている。
インタビューに応えてくださった方。
インタビューの実現に力を貸してくださった方。
ありがとうございました。
安心して生んで老いていける町という一つの思いを得て、
この「日々を織る」を完結とします。
お読みくださった方々。
そして記事をシェアしてくださった方々。
ありがとうございました。
そしてもう一度、お話くださった方々へ、
ありがとうございました。
言葉に尽くせない感謝でいっぱいです。
筆者 井上昌子(フランセ) 2021.11.4
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]]>☆「日々を織る」 福祉の現場に生きる人たちのルポルタージュ ☆
<コラム> 「安心して生んで老いていける町」への思い 1/2
都島友の会さんに伺ったのは別件の取材のためだった。
2015年にスタートした「子ども・子育て支援新制度」下での
「幼保連携型認定こども園の現状と課題」について、
というのがそのテーマだった。
都島友の会さんをご紹介くださった方から、
創設者の比嘉正子という人物は、
日本の保育の草分けであると同時に、
日本の消費者運動の生みの親だと伺っていた。
保育と消費者運動、というのが、
その時には自分のなかで結びつかなかった。
そして、取材のための取材をすれば、
それだけで、ちょっとした原稿が書けそうなほどの情報が集まった。
待ち遠しかったインタビューの日、
ご用意くださっていた文献資料や施設を拝見しながら、
5時間を越える長い取材になった。
そして、それではとうてい時間が足りないほどの
比嘉正子さんと都島友の会さんの物語。
揺りかごから墓場まで。
保育を真ん中に、誰もが明るく楽しく暮らせるような環境をつくる。
そして彼女が蒔いた一粒の種が、90年の時を経た今、
承継者によって育ち続けている。
二代、三代にわたって、園児として子どもたちが通う。
1931年の最初の園児が、最期の時を過ごしたいと
またここに戻ってきた。
町の人たちが子どもたちを見守り、
高齢になったその人たちを地域で見守る。
それはまさに「安心して生んで老いていける町」だった。
福祉法人とのご縁が生まれてブランディングのお手伝いをするようになり、
このルポルタージュ「日々を織る」を書きはじめた。
障害者、高齢者、母子、保育、幼児教育、学童、在宅福祉、地域福祉。
高い専門性と経験をもつ方たちのお話を伺うに連れ、
福祉というものの大きさを知った。
特別なところにあると思っていた福祉という分野が
じつは町の人々の日常を支えているものだと分かるようになってきた。
そして、その思いのなかから
「安心して生んで老いていける町」という言葉が浮かんできた。
このルポルタージュ「日々を織る」で
都島友の会さんのストーリーを書かせていただきたいと思った。
そもそもの取材のきっかけだった
「幼保連携型認定こども園の現状と課題」という企画は
編集サイドの都合で流れた。
仕事が消えて、取材の記録が残った。
そして何より、書きたいという強い思いが残った。
自腹を切っての取材となったことは、自由を得たことだった。
事前取材とインタビューの記録、いただいた資料をもとに
「安心して生んで老いていける町」というタイトルで書き始めた。
最初の3節、六千文字ほどを書きあげたところで、
この「日々を織る」で書かせていただきたいと、
趣旨と原稿を、都島友の会さんにお送りしてお願いした。
ご快諾をいただいた。
長い原稿のたびたびのチェック、追加の取材、写真の使用許可、
知りたいと思うことを存分に教えていただいた。
取材の記録を読み込み、書き進めるなかで、たびたび、
これまでの5つのストーリーをお話いただいた5人の方の言葉が思い出された。
すべてが自分のなかで繋がっていった。
自分たちができることを見つけて、一つずつ実現していく。
その積み重ねが、地域の人の生活を支えていく。
「安心して生んで老いていける町」への思いが、そこにあった。
誰もが選択肢をもって生きていける、
自分の生活を自分の意思でつくっていく。
年齢、障害、家庭の事情、誰もが抱える様々な事情。
その事情が個人の力で手に負えなくなったときに支える存在。
それが、地域に根づいた福祉だ。
そして、それは垣根の向こうの特別なものでもない。
たとえば今わたしは、白湯を飲みながらこの原稿を書いている。
この白湯を、わたしは自分の力だけで手にできない。
このひと口は、どれだけの人の世話になって手にしているものかと、
この文章を書いていて、そう思う。
「社会のインフラとして」という荒井恵一さんの言葉が浮かんでくる。
福祉は社会のインフラのひとつ。
それがあるから、人は安心して日々を暮らせる。
福祉の仕事というのは、
なんてクリエイティブでダイナミックなのだろうか。
福祉法人、福祉施設のブランディング、
そして、この「日々を織る」の取材と執筆を通じて
感じ続けてきたことだ。
一人ひとりの当事者の生活を楽しく豊かにするための工夫。
ささやかな気づきから、一人の人の生活、
もっと言えば人生が大きく変わったエピソードに
鳥肌が立ったことは一度や二度ではなかった。
目の前にいる人に目を凝らし、耳を澄ませて、
その人の毎日の生活をより明るく楽しいものにしたいと
心をくだき、知恵をしぼり、工夫をする。
福祉の現場の仕事はクリエイティビティに溢れている。
そしてそのクリエイティビティは、
町の姿を変え、制度を動かしていく力になる。
「制度が現場を動かすんやない、現場が制度を動かすんや」
ある施設の長から伺った言葉だ。
制度にあるとかないとかの前に、目の前にいる人が困っているならば、
その困りごとを何とかするために、できることをする、やり続ける。
そしてそれが必要なことだと世の中に認められたら、
その時には制度になる、と。
この言葉どおりに地域のために力を尽くし続けた方が、
今の私たちの施設の土台を固めてくれたと。
比嘉正子さんについて、
保育の草分けと消費者運動の生みの親という二つの側面が
最初は結びつかなかった。
しかし取材を重ね、資料を読み込んでいくなかで、
この二つがぴたりと重なった。
子どもたちの生活、子どもたちの生命を守るには、
衣食住の環境を整えることが肝要だ。
だから彼女は動いた。
そしてやがて、政財界から意見を求められ、提言するようになった。
子どもを守るという思いは、
その子たちの家庭、地域、そして社会の環境を整えていくことへと
広がっていった。
生活者の視点から町の姿をつくり、社会のあり方を変えていく。
福祉事業とはなんとダイナミックなのだろう。
このクリエイティビティとダイナミズムをもつ福祉事業、福祉施設が
地域の真ん中にある。
福祉を真ん中に育っていく町。
それが、「安心して生んで老いていける町」だ。
筆者 井上昌子(フランセ)
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]]>
Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
?継ぎゆく人
xx 原点回帰、承継
xx 原点回帰、承継
託児所と幼稚園が一緒になったような、福祉的幼稚園。
幼児教育が富裕層の特権であった昭和の初め、
庶民の子どもたちに、保育と教育が一緒になった子どもの園をつくった
創設者、比嘉正子。
26歳で公園を園舎に青空幼稚園を創設し、
家庭がどうこうあろうと子どもたちは平等だと、
0歳から5歳までの子どもたちの保育と教育を行った。
その日の暮らしをたてるため働く親たちを助け、学童保育を行い、
図書室や学芸のクラスをつくり、
子どもたちの将来の可能性を広げてきた。
1931 (昭和6)年、社会事業の師である志賀支那人のひと言で赴いた都島の地で、
子どもたちを守り育てることに心血を注いだ比嘉正子。
次はどうする、次はどうすると切り拓いてきた道は、
日本の保育事業の先駆けであった。
2015(平成27)年にスタートした
子ども子育て新制度下の幼児連携型認定こども園は、
1931 (昭和6)年以来、都島友の会が続けてきた
福祉的幼稚園の姿そのものだった。
0歳から5歳まで一貫して行う知・徳・体の教育と保育。
子どもたちの、日進月歩の発達を細やかに見つめ、
将来の基盤を築く子育てのあり方。
新制度の公布に「私たちが信じて、戦前戦中戦後と続けてきたことに、
国が追いついてきてくれた」と思った。
そして、法人が運営する0歳から5歳の施設すべてを
幼児連携型認定こども園に移行すると、いち早く手を挙げた。
「次はどうする、次はどうすると動き続けていた比嘉正子は、
いつも10年先の社会を見ていました」
目の前の子どもたち、母親たちを見つめながら、同時に10 年先を見ていた。
日本で始めての乳児専門保育施設、
下駄履き住宅の登場と同時に開設した
乳児保育センターの上階に併設の低価格賃貸住宅あやなす荘、
ポリオの流行に対応して開設した、障がい児養育施設。
肝っ玉の大きなおかみさんが「困っているならうちにおいで」と
声をかけるような大らかさ、気さくさで、
子どもと母親たち生活者が必要としている助け舟を出し続け、
需要の肥大に制度が腰をあげた時には、さっとそれに適う形が整っている。
目の前の生活者に必要なものを見つめ続ける日常の眼差しと、
将来を見据える視線。
その2つを備えた行動力が実現してきたことだ。
そして、この姿勢は「次はどうする、次はどうする」精神とともに、
都島友の会に受け継がれている。
「正しく情報を得るために、アンテナをたてて
中央の動き、町の姿をよく見ています。
うちの事務局長は、しょっちゅう、大阪駅からここまで歩いてくるんです。
新しいマンションができたとか、お店ができたとか、
町の様子を肌で感じながら歩くんですって。
そうすると、データだけでは分からない人の生活が見えてくると」
再開発により高層住宅が立ち並び、変わっていく町の景観。
それは町の人の暮らしの変化でもある。
「鉄筋コンクリートでエレベーターがあって、
部屋のなかも今様のマンションに住む子どもたち。
そういう子たちが、木造の古びた保育園に来たらどう思うでしょう。
お父さんお母さんたちだって、どう思うか」
公園を園舎に青空幼稚園を始めて数か月で、
創設者比嘉正子は300坪の土地に園舎を建てた。
名誉園長、山野平一からの支援があってのこととはいえ、
無一文で始めた正子にとって、
それだけの施設の賃料を払っていくことは容易いことではなかったはずだ。
しかし正子には、子どもの園はけして見窄らしいものであってはならない
という強い思いがあった。
「その時々の、いちばん良いものを提供する。
それが地域への貢献になる。
比嘉先生は、常々そう口にしていた」
正子の思いを次代に繋いでいくために、渡久地さんは
理事長になると、各施設の改築に着手した。
本園・都島児童センターの1階ホールにある、遊具。
青空の下、大きな船で子どもたちが遊ぶ。
「経営について、比嘉先生から教えてもらったことのひとつが、
『館(YAKATA)があれば子どもが集まる。
子どもが集まれば経営は続く」というもの」
都島友渕保育園、都島桜宮保育園と、
町づくり事業の要となる児童施設の建設を担当した渡久地さんが、
比嘉正子から受け取った考え方だ。
「少子化で子どもの数が減ったらどうしますか、と聞くと、
広々と遊べていいじゃないの、と。
子どもの数に合わせて、たくさん集めた職員たちはどうしますかと聞くと、
のびのびと子育てできていいじゃないの、と」
のびのびと育つ環境、子どもたちが来るのを楽しみにするような空間。
理事長となった渡久地さんが改築を手がけた各園は、
広さ、設備の充足など、新制度下の幼保連携型認定こども園の規格に適うものだった。
2015(平成27)年の制度のスタートと同時に、
都島児童センター、都島友渕児童センター、
成育児童センターの3園を幼保連携型認定こども園に移行。
改築中だった桜宮児童センターを2019(平成31)年に、
ひがみや児童センターを2021(令和3)年に移行した。
なお、この5つの園の名前を、児童館や保育園から児童センターと
改称したのも渡久地さんだ。
子どもたち、子どもたちの保護者、卒園者、地域の人たち、
子どもを真ん中に町の人たちが集まるセンターなのだ。
廊下に面したキッチン。
「幼児連携型認定子ども園への移行は、原点回帰。
教育と保育を両輪としてきた福祉的幼稚園という、
法人の原点としての姿に、あらためて立ち戻った」
地域と地域の人とともに生き、ともに支える。
それは地域の姿に応じて、法人も変化を受け入れていくことにつながる。
その1つに、「母の会」の名称変更がある。
比嘉正子が青空幼稚園の創設から間もなくつくった『母の会』を、
『保護者の会』と変えた。
「私は、『母の会』という名前を残したかったんだけど、
若い先生たちが、もうそういう時代ではないというから」
保育者と母親の間の信頼と友愛が
保育の望ましい環境を整えていくという相互扶助の理念のもと、
比嘉正子がつくった『母の会』。
正子がつけた名のまま残していきたかったが、若い先生たちの意見を受け入れた。
最近は、送ってくるのは母親、迎えにくるのは父親など、
送迎一つとっても昔とは違ってきている。
参観日など平日の行事にも、休みをとったり、
その時間だけ仕事を抜けてきたりという父親も多い。
そういう子育てのあり方にそって、『保護者の会』という名前に
変えましょうという若い先生たちの感性に、渡久地さんが歩み寄った。
時々の人の生活や感性に寄り添いながら守っていく法人の心。
その原点となる、比嘉正子の思い。
どうこうあろうと、子どもたちは平等だとつくった福祉的幼稚園。
次代を担う保育者たち、そして保護者たちにつないでいく
都島友の会の心。
渡久地さんは、創設者比嘉正子の背中に学び、
その言葉を直接聞いた最後の世代、最後の一人だ。
「年齢を重ねて体力の衰えも感じる。
セキュリティやリスクマネジメントのためのIT導入、
対人業務のなかにも進むコンピュータ化、AIなど、
新しい知らないことがどんどん出てくる。
世の中の変化のスピードについていくのもたいへん」
時々の人の生活、人の考えや感性に応じて変わっていく弾力。
その弾力の原点は、創設者比嘉正子が蒔いた一粒の種だ。
原点回帰である幼児連携型認定こども園への移行を前に、
渡久地さんは、当時の文部科学大臣・下村博文氏を講師に招き、
法人の職員たち、保護者たちと、
子育てについての大きなビジョンを共有するための講演会を開いた。
講演のテーマは『教育の再生の方向性 ~日本の子どもたちをどう育てていくか』。
「教育の無償化の話、今後の教育はどうあるべきかという話をしていただいた。
2015(平成27 )年以降のこと、子育て制度、無償化のこともふまえて、
中央の、もうできあがっている文科省的なビジョンを、
我々、職員全員、保護者も含めて、聞かせてもらったんです。
それを先に聞いて、自分たちの法人の立ち位置をどうしていくのと。
比嘉先生もそうしていらしたんだと思う。
生活者としての視点を持って、これからの世の中のことに目を向けて、
次はどうするのん、次はどうするのんと、
先々へのイメージを持っておられたんです」
揺りかごから墓場まで。
誰もが、時々の暮らしに野の花一輪の希望があるような世の中を信じて、
子どもたちという土壌に、福祉的幼稚園という一粒の種を撒いた比嘉正子。
その心を受け継ぎ、保育、幼児教育、高齢福祉と、その種を育て続ける渡久地さんは、
次代へと継ぎゆく法人の基盤を、原点回帰という言葉に込めている。
インタビューの間に、渡久地さんが呟くように口にする言葉があった。
「あの人なら、こうしていたはず」
「それがあの人のしてきたこと」
理事長となり、あらためて組織づくりに力をいれるとき、
厳しい決断も必要だった。
変わっていく世の中で、子どもたち、職員たち、そして
都島友の会に集まってきてくれる地域の人たちを守るために、
常に判断を求められ、決断を続けてきた。
迷いや躊躇い、不安がなかったと言えば嘘になるだろう。
その時、渡久地さんは、創設者比嘉正子の心に耳を傾けていたのだと、
インタビューの途中で、ふと自問自答するように目を伏せる姿に、
そして「あの人なら、こうしたはず」「それがあの人のしてきたこと」と
呟く言葉に、思った。
子どもたちの将来の基盤をつくる、可能性を広げる福祉的幼稚園。
保育者として、社会福祉の人として、比嘉正子の心を生きている人。
創設者比嘉正子さんが10 年ごとに発行してきた周年史のタイトルを、
正子がつけた『語りつぐ』から『つなぎ、つないで』に変えた。
都島児童センター。
法人本部に向かう2階への階段には、
都島友の会の歴史を記されている。
「比嘉先生は自ら語りついでいた。私たちは、それを、つないでいく。
だから、私が理事長になっての80周年史からは
『つなぎ、つないで』にしました」
比嘉正子という人の心を、つなぎ、つないでいく。
渡久地さんが口にする『原点回帰』という言葉から、
承継という大きな使命が伝わってきた。
完
次回「コラム | "安心して生んで老いていける町" への思い 1」へ
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
『ゆんたく 都島』社会福祉法人 都島友の会発行
JUGEMテーマ:社会福祉
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
?継ぎゆく人
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
人生の最期の時間を、幼い頃に過ごした場所で過ごしたいと、
都島友の会に戻ってくる人たちがいる。
2002(平成14)年、都島友の会初の高齢者施設、
『特別擁護老人ホーム ひまわりの郷』を開設した。
創設者比嘉正子さんの逝去から10 年後、
彼女が目指していた福祉、揺りかごから墓場まで、
人が心身ともに健やかに暮らしていける環境づくりへの大きな前進だった。
「この『ひまわりの郷』で、私、
初めてプレゼンテーションというものを経験しました。
社会福祉法人も、何か事業をするにあたっては
一般の企業と同じようにプレゼンテーションをする時代の始まりでした。
人と同じように、法人にも得手不得手がある。
企業やNPOなんかと比べると、社会福祉法人、
とくに長くやってきた社会福祉法人は、そういうことはあまり得意ではない。
けれど、これからは、そういう力も必要」
開設の前年、2001(平成13)年、
渡久地さんは、大阪市に高齢者施設建設計画のプレゼンテーションを行った。
都島の町とともに歩んで70年。
乳児幼児の保育と教育、戦時託児所、0歳児保育、障がい児養護、学童保育と
町の姿、人の生活を見つめながら、子育ての支援によって地域を支えてきた。
比嘉正子から受け継ぐ「次はどうする、次はどうする」の精神は、
都島友の会の事業を、高齢者福祉へと押し広げた。
1990(平成2)年、大阪市がJR桜宮駅近く、旧国鉄貨物駅の跡地を
医療、保育、高齢者施設を備えた新しい町として開発するにあたり、
都島友の会が保育部門を受け持ち、都島桜宮保育園を開設した。
実はこのとき、保育と高齢の両方を都島友の会が受け持つという話だったが、
建設を担当する渡久地さんは、最終的に保育部門に集中する決断をした。
「あのときは、私に自信がなかった。
比嘉先生の高齢化もあったし、未経験の高齢者施設まで引き受けるには、
自信が足りなかった」
町も年齢を重ねていくのだから、
高齢者を支援する事業の必要性は分かっていた。
しかし、今、自分たちがそれを引き受けるかどうかは別の話だった。
実績のある保育と幼児教育に集中しようという、
この渡久地さんの判断に思い出すのが、
地域に保健所も開業医の一軒もなかったとき、
児童館の子どもを守るため、地域の人を守るため、
さらには近接する地域にいた低所得者を守るために開設した病院―
渡久地さんが設備近代化のために改築担当をした病院だーを、
改築から数年で閉鎖した比嘉正子の決断だ。
地域医療の状況が改善された町の姿を見て、
正子は、自分たちの事業の核である福祉的幼稚園に集中すべきだと
病院を閉鎖、再度の改築を行い、都島第2乳児保育センターを開設した。
高度経済成長期の町の姿に応じた判断だった。
1999(平成11)年、友渕地域デイサービスを開設した。
鐘紡株式会社から寄付きれた土地を活用しての大阪市の措置事業だった。
都島友の会が初めての乗り出した高齢者支援事業に、
自治会など地域の人たちからの力強い支援があった。
そして2年後の2001(平成13)年、
高齢者施設建設計画を大阪市にプレゼンテーション。
2002年(平成14)年、都島児童センターの近くに
『特別擁護老人ホーム ひまわりの郷』を開設した。
入居者は大阪市全域から集まったが、
とりわけ都島で生まれ育った人たちが多かった。
町の人たちが、都島友の会が高齢施設をつくるのを待っていたのだ。
「昭和6(1931)年の、青空幼稚園一期生さんもいます。
お兄ちゃんについて公園まで来た子を比嘉先生が、
あんたも一緒においでって言って、そのまま園児になった人。
90年前だから、もう94、5歳になられますかね。
その人が、都島友の会が老人ホームをつくるというから待っていた。
人生の最期は、またあそこに戻るんだって」
特別養護老人ホーム『ひまわりの郷』
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで』より
1999(平成11)年にスタートした、
『友渕地域在宅サービスステーション ひまわり』は、
デイサービスセンター、居宅介護支援事業、介護支援センターの機能を持ち、
高齢者が住み慣れたわが町都島で安心して暮らしていく支援をしている。
さらに2020年春から、介護を必要とする人のための
『訪問介護ひーぐるま(沖縄の言葉でひまわり)』も始めた。
地域や地域の人たちと、ともに生き、ともに支える、友の会。
0歳から100 歳まで、人が明るく穏やかに健やかに暮らす町を支える
都島友の会には、地域の人が集まってくる。
1991(平成3)年、園長に就任した都島桜宮保育園で渡久地さんは、
子どもたちが、地域の人たちと交流することを目指した。
「今では地域のおじちゃんたちが、
子どもたちと一緒に野菜づくりをしてくれている。
夏には自分たちが種を植えて育てた西瓜を食べたり。
昨日行ったら、大きなプランターに大根が育ってました。
地域の人たちが育ててくれて、そこに子どもたちが行って、
一緒にさせてもらっている。
運動会なんかでも、前日に雨が降ると、
地域のおじちゃんたちが職員と一緒になって水を吸い取って
運動会ができるようにしてくださったり。
地域と、地域の人たちに可愛がられている、
子どもたちを守ってくださっている」
地域ぐるみの保育。
ともに生き、ともに支える、友の会がつくってきた町の姿だ。
1931(昭和6)年に、創設者比嘉正子が蒔いた一粒の種が、
都島の町に根を張り、育っている。
渡久地さんはさらに、こう続けた。
「都島友の会で育った人たち、
子どもたちを見守ってきてくれた地域の人たちが年を重ね、
都島友の会に集まってくる。」
比嘉正子の蒔いた種、その心を、次代へと継ぎゆくために
渡久地さんは、今、原点回帰の舵をとっている。
次回 最終回「xx 原点回帰、承継」へ
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
『ゆんたく 都島』社会福祉法人 都島友の会発行
JUGEMテーマ:社会福祉
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
?継ぎゆく人
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
xviii 可能性を広げる時間
親になって子どもと一緒に戻ってくる人、
保育者になって戻ってくる人。
都島友の会の卒園者には、
自分が育った場所に、やがて戻ってくる人が多い。
都島友の会の創設者比嘉正子は、18歳で故郷沖縄を離れ
アメリカ人宣教師ミス・ミードが大阪に開校したバブテスト女子神学校に入学した。
1925(大正12)年当時、
男女七歳にして席を同じゅうせずという考えが一般的であったなか、
男女の学生が同じく意見を述べあい一緒に音楽やスポーツを楽しむ環境は、
正子に新しい世界観を開いた。
「18歳という多感な時期に出会ったミス・ミードからの影響は
とても大きかったのでしょう。
比嘉正子という人は、とてもアメリカ的な人だったように思います。
戦中戦後におかみさんたちが集まって台所を守るために声をあげた
消費者運動の先駆け、主婦の会も、女性の自由と自主性という
アメリカ的な考えが正子のなかにあったからではないでしょうか。
そして、このアメリカ的な考え方と感覚は、
正子の幼児教育の理念の根底にもありました。
創設者比嘉正子が昭和の初めから、
この都島友の会で行ってきた保育と幼児教育は、
日本的というよりもアメリカ的ではないかと思います」
子どもも一人の生活者として捉え、
自分の考えをもって行動できる自主性を育てる。
それぞれの個性をのびのびと伸ばす自由保育。
理想とする幼児教育の実践のために保育者に要求する高い知識と技術。
おおらかさを支える理論と緻密な配慮。
たとえば、渡久地さんが乳児保育センターの事務所勤務だったとき、
オムツや昼寝用の布団の購入に際して、
保育者にとっての使い勝手、子どもにとって使い心地など、
いちばん良いものを選ぶ細やかな視点を求められた。
その、保育の質について妥協をしない比嘉正子の姿勢、
正真正銘の保育者としての姿が渡久地さんの記憶に焼きついている。
「子どもたちが遊んでいたらパッと自分の立つ位置がわかるんです。
どこにいれば、子どもたち皆が見えるか、見通せるか。
それをしない保育者を徹底して叱っておられた場面を見たこともあります。
それから、子どもたちに話をするとき、
先生がどこにいれば、子どもたちが集中して話を聞くかを
瞬時に判断しておられました。
子どもの気を散らせるようなものが、先生の背後なんかに入らないように、
子どもたちと自分の配置を、パッと決めておられた」
子どもたちとの日常生活や遊びのなかにある環境づくりの機会を逃さない。
卓越した保育者、比嘉正子の姿を手本に、渡久地さんたちは
理論、知識、技術によって、子どもたちがのびのびと成育していく
環境のつくり方を学んできた。
法人本部が入る、本園・都島児童センター内の資料室。
記録を将来に向けて保存するアーカイブ。
90年間の実績が詰まっている。
0歳児から就学前までの乳幼児の発達過程に応じて細密に組んだ、
日本保育協会から表彰された、運動や音楽のカリキュラム。
0歳児保育の制度化に際して、モデルとして採用されたカリキュラム。
実践により積み重なった経験を蓄積されたデータとして生かしていく姿勢。
この比嘉正子の姿勢を受け継いだプロジェクトが、
現在、都島友の会で進行中だ。
渡久地さんが理事長になり立ち上げた各種専門委員会の1つに
リスクマネジメント委員会がある。
園長会など他の委員会と連動しながら、
法人全体のリスクマネジメントに主体的に取り組んでいる。
2007(平成19)年の発足から事故の統計をとってきた。
園ごとに、どういう事故が起こりやすいか。
何曜日の、どういう時間帯に多いのか。
「何年も何年も統計を取ってきた結果、
こういう時には目を離さないようにしましょうと、
見えてきた傾向と対策があるんです」
今日あったこと、保育中にひやっとしたことがあったら、
どれほど些細なことでも日誌に書いて、まず各園ごとに共有する。
次にその各園のデータや統計を法人全体で共有し、
事故の要因や改善策などを垣根を越えて話し合う。
そして現場の職員たちがフォローアップしながら
子どもたちの園での生活を見通し、安全な環境を守っている。
比嘉正子による細密な記録と統計。
おおらかな自由保育の基盤となる科学的な姿勢が垣間見える。
保育者がつくった環境のもと子どもたちが、のびのびと活動する。
その過程で知らず知らずのうちに自主性が養われていく。
同時に集団生活のなかで社会性を身につけていく。
明快なビジョン、明確な理論、質の高い技術と裏付けとなるデータ。
1931(昭和6)年の創設以来、比嘉正子が実践し続けてきた保育と幼児教育。
それはアメリカ人校長ミス・ミードのもとで学んできたものだ。
渡久地さんがアメリカ的と表す比嘉正子の幼児教育の柱として、もう一つ、
今も都島友の会に受け継がれているのが、
一貫した、知・徳・体の養育養護というコンセプトによる
体育や学芸のプログラムの充実だ。
ピアノ、和太鼓、日本舞踊、体操、チアリーディング、習字、
読書クラブ、英会話、プログラミング……など、
課目、課外と多様なプログラムがあり、
乳幼児が一堂に会した法人全体での発表会も年に1度、行っている。
この時期の経験は、子どもたちの将来の土台になる。
だから可能な限り、豊かな経験ができる環境をつくる。
比嘉正子のこの思いの根幹にも、
パプテスト女子神学校時代の彼女の経験を思う。
人間味あふれる教師たちの指導のもと、
男女の隔てなく学生たちが自由に交流し、テニスやコーラスなどを楽しんでいた。
真摯な学びの一方で、笑いとユーモアが絶えない自由な日常生活。
そういう環境のなかで比嘉正子のなかに育っていった社会事業への情熱。
誰もが等しく、自由で笑いとユーモアのある日常生活を送れる社会、
比嘉正子という人が描いた誰もが平等に暮らす世の中の姿とは
そういうものではなかっただろうか。
そして、そういうビジョンをもたらしたのは、
当時の日本人女性にとって新鮮な彼女自身の豊かな経験だった。
「子どもたちはどうこうあろうと平等だと、
1931(昭和6)年に青空幼稚園をつくった時から、
一貫して比嘉正子は語っています。
先代の、この気もちをずっと引き継いでいきたいと思っています。
現代にも、いろんな子どもがいる、家庭の状況は様々。
でもほんとうに、子どもには差がないじゃないですか。
この人のお家はお金があって、この人のとこはそうじゃないとか。
うちに入ってきたら、関係ない。子どもには差がない。
だから、うちでいろんな経験をしてもらって、
小学校中学校で、自分が何が得意かを知ってもらって、
自分の将来をつくっていってもらいたい」
経験の幅が広ければ広いほど、子どもたちの将来の選択の幅が広がる。
自分に向いている、向いていないを見極める力が養われる。
「比嘉正子は、さあ、巣立ちなさい、という人でした。
明るい方へ、明るい方へ目を向けて、生きなさい。
どんどん、広い世界にむかっていきなさい。
そのための力を養うために、ここがある。
そして、広い世界を経験した子どもたちが、
いつかまた笑顔でここに帰ってくるのが嬉しいと、そういう人でした」
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
『ゆんたく 都島』社会福祉法人 都島友の会発行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
?継ぎゆく人
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
理事長に就任した翌年の2007(平成6)年、
新たな時代に向けて法人の組織改革に着手した渡久地さん。
法人本部設置によるマネジメントの一本化でシステム面からの強化を、
専門委員会設置による職員間のコミュニケーションの活性化によって
保育、幼児教育、障がい児支援、高齢者ケアなど各事業の
ソフト面のクオリティの強化を、
さらに広報活動への注力によって
地域社会とのさらなる信頼関係の強化を図った。
『都島友の会』という法人の名称について、渡久地さんは
「皆の、皆でつくる友の会、という意味でしょう。
子どもたち、保護者、友の会を見守ってくださる地域の皆さん、
私たち職員だけじゃない、そういった皆でつくるという思いを
比嘉正子は『都島友の会』という名前に込めたのでしょう」と語る。
創設者比嘉正子は、保育と幼児教育という仕事を
子どもの将来の基盤を築くものであると信じた。
だからこそ、私心を持たず、その信念に身を投じた。
1925 (大正14)年、社会事業の道へと誘ったバプテスト女子神学校を卒業し、
日本最初の公立セツルメント『大阪市立北市民館』の保育組合の保母になった正子。
当時のスラムにあった北市民館には、
昼の弁当を持って来られない子どもたちも多かった。
両親たちはその日その日の生計を立てるのに身を削り、
保育や幼児教育などの理屈は、
自分たちの暮らしからは掛け離れたところにあった。
その現実に身を置いて正子は、学生時代に学んだ保育理念の実践には、
まず、保護者たちにその理念が受け入れられることの必要性を実感した。
保育者と保護者が思いを同じにしてこそ、
理想に描く保育と幼児教育の実践が可能になる。
保育者と保護者は、仲間、友でなければならない。
沖縄で日曜学校に通っていたころ見聞のあった『母の会』をつくり、
園児の親に限らず、子育てをする母親たちを広く受け入れた。
「『無知と貧困と病が、人生の3つの大きな不幸』とも、
正子はよく口にしていました。
その不幸を避けるために、自分たちが正しい知識を得ること、
その知識を母親たちにも伝えることの大切さをよく口にしていた。
たとえば、今のコロナウイルス感染症、これなんかまさにそうですね。
未知のウイルスで、私たちには知識が足りない。
皆それぞれ生活があるから、感染のリスクがあっても
働くことはやめられない。
無知と貧困、病がもたらす不幸を身をもって体験している。
だから比嘉正子は、保護者が安心して働けるように、
短時間、長時間、学童と、制度の前から幼保連携でやって、
そこに、母親たちの勉強会なんかもいっぱいやった」
『母の会』は『保護者の会』となって、今も続いている。
専門委員会や園長会などでの自主的な学び合いによる知識を、
適切に保護者たちとシェアすることで、
子どもたちに望ましい保育と教育を推し進めていく。
子どもたちの将来のための保育と教育のあり方を
皆でつくりあげていく都島友の会。
その活動の輪を広げていくためにウエブサイトや広報誌をつくった。
沖縄の言葉でおしゃべりを意味する『ゆんたく』という名前の広報誌は、
年に2、3回、毎号4000部を発行している。
2007(平成19)年3月の創刊から約10年を迎える
今年2021(令和3)年の春に出した創立90周年記念号で第33号になる。
法人の各施設からの職員で構成するゆんたく委員会で企画編集から執筆まで行い、
ゆんたく、という誌名も創刊時の委員会が考えた。
今の園児たちの保護者、卒園児、卒園から2年までの卒園児の保護者、
そして役所、連合会長、民生委員、小学校、中学校など地域の人たちに
郵送している。
都島友の会広報誌『ゆんたく都島』
「ゆんたく、という名前のとおり、皆さんでおしゃべりしましょうと。
私も毎号、何かおしゃべりしている。
創刊のころは世相について書いていたけれど、
途中からは、法人の歴史なんかに内容が変わってきた。
どうして本園ができたとか、友渕ができたとか。
そういうことを書いて残しておかないと
職員の皆さんたちも知らなくなっていくので、
語りつぐ内容に変えました」
広報誌『ゆんたく』を開くと、子どもたちの姿が目に飛び込んでくる。
笑い声やはしゃぐ声が聞こえてきそうだ。
そんな子どもたちの姿に、自分が園児だった頃を思い出す卒園者も多い。
「嬉しいことに、うちは、卒園してからも園とのつながりを
大切にしてくれる卒園さんたちが多いんですよ」
都島友の会には、自分の子どもの入園を希望する卒園者が後を絶たない。
そんな卒園者の1人から、
自分の子どもの卒園式に謝辞を読みたいという申し入れがあった。
我が子3人を都島友の会に入れ、3人目の子どもの卒園のときに、
これで自分も心置きなく卒園できると、羽織袴姿で謝辞を読んだ。
「歴史があるというのは、そういうのがおもしろいですね。
成長した子どもたちに会える。
『二十四の瞳』の大石先生と同じ経験をさせてもらっている」
親になって戻ってくる卒園者がいれば、
保育者になって戻ってくる卒園者もいる。
「先生が制服につけているピンクのエプロンをつけたいと言ってた子たちが、
ほんとうに園に帰ってきて、エプロンをつけている。
ここで育った子たちが、次世代を担う職員になってくれているんですね」
大人になっても戻りたいと思う場所、大人になって戻ってくる場所。
それは、どういう場所なのだろう。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
『ゆんたく 都島』社会福祉法人 都島友の会発行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
?継ぎゆく人
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
xvi 知識と技術の承継
子どもの自主性を重んじ、一人ひとりの個性を伸ばしていく。
その重要な保育方針を可能にするのは、
そこに用意された環境や、保育者の心の通った誘導だと
創設者比嘉正子は説いた。
そして、もう一つ、比嘉正子が常に実践していたのが、
いちばん良いものを提供するということ。
正子のこの考えと行動を受け継ぐ渡久地さんは、
「保育と預かりは違う」と言う。
0歳から5歳の、さらには学童期を過ごす環境は
その子どもの将来に大きく影響する。
保育者が担う役目は大きく、
それ相応の知識、技術を備えたクオリティが要求される。
1983(平成5)年、建設から担当した都島友渕保育園の園長に就任した渡久地さんは、
子どもにさせる、から、子どもがする、へと日常的な言葉遣いを変えるところから
自身が考える保育方針の浸透を試みた。
すると、子どもがする、ための環境をどうつくるかという言葉が、
保育者たちから出てくるようになった。
子どもがするため環境づくりを考えることが保育方針となり、
その方針は職員の自主性も育てていった。
2006(平成18)年、理事長となった渡久地さんは
新たな組織づくりに着手、法人本部を設置し指示系統を一本化、
それぞれ専門性を持つ施設に横糸を通した。
さらに、リスクマネジメント、乳幼児の教育保育、
障がい児発達支援、高齢者介護、看護師会などの専門委員会を設置したところ、
施設の垣根を超えて情報を共有し、法人一丸で学び合うようになっていった。
「先生たちが、いろいろやってくれている。
そういった学び合いも含めて、先生どうしがいろいろ提案しあって、
次はどうする、次はどうすると、自主的にやってくれます」
創設から90年に渡り培ってきた保育と幼児教育の質は
都島友の会の保育者たちにとっての誇りだ。
いかにその質を次世代に渡していくか、
その質を受け継ぐ次世代をいかに育てていくか、
園長会や専門委員会を中心に様々な取組みが行われている。
年間カリキュラムに基づいた研修制度の充実や、
法人オリジナルの育児の手引書づくりなど、
保育者の優れた技術を重要視した比嘉正子の考えを汲み、
知識や技術の具体的、実践的な習熟を目的としたものも多い。
保育者がベテランであっても新人であっても、
子どもは等しく安全に養護されなければならない。
そこには学校の授業や実習では教えきれないことがある。
実際の子どもに接して初めて見ること、経験することは山ほどあるのだ。
予備知識をつけることで当惑せずに行動できるようにと手引書をつくった。
長い歴史のなかで蓄積された知見を、言葉と写真で事細かに解説している。
「皆さんが集まると、すごい知恵が出てくるんですね。
先生たちが、ぜんぶ、作ってくれました。
長い歴史のなかで蓄積してきた知識や技術をまとめたバイブルです」
法人の先生たちがつくった、保育と幼児教育のバイブルの中から。
看護師会による衛生管理のバイブルもある。
冊子を開くと、実際に子どもに接するなかで起こることを
細やかに取り上げた内容がページを埋めている。
専門的なことから、家庭の育児においても教わりたいようなことが並んでいた。
その中の1つに、オムツ替え時の観察に関する項目があった。
オムツについた便の写真が、
色、形状、匂いなど言葉による説明を添えて幾種類も並ぶ。
実際に何人もの子どもたちのオムツ替えをしてきたなかで集められた情報だ。
オムツ替えのたびに、子どもの健康状態をチェックする姿が思い浮かんだ。
新人の保育者たちは現場に出る前に、この手引書で学ぶ。
また現場に出てキャリアを積んだ保育者たちも、
折りに触れてこの手引書を読み返し、知識の補強を行っている。
『より具体的に分かるようにと、
保護者さんにお願いして、写真を使わせていただいてます。
私たちの時代は、見て覚えるでしたけど。
これからの若い先生たちには、そういう感覚的なことだけでなく、
言葉で細かく説明する方がいいんじゃないか、
イメージを助ける視覚情報もいれた方がいいね、と
皆で話し合って、こうなりました』と、
手引書の作成者である園長先生方がそう説明してくれた。
保育と幼児教育のバイブル。
より具体的に理解できるように視覚情報も多い。
戦争中、自身の子ども2人が入院療養する状況にあって、
何に代えても園児たちを守ることを選んだ創設者比嘉正子。
その心を継ぎゆく決意がこもった
「保育は預かりではない」という渡久地さんの言葉。
その言葉の重さ、保育の質、保育者の質を
比嘉正子が目指したところから落とすわけにはいかないという
都島友の会の信条が、手にしたバイブルから伝わってくるようだった。
長い歴史と伝統に培われた保育と幼児教育への造詣は、
都島友の会のカリキュラムに反映されている。
子どもたちの発達段階に応じた細やかなカリキュラムだ。
たとえば、50年間続いているマット運動や跳び箱、
5歳を最終的な到達点に0歳からプログラムを組んでいる。
ハイハイをして山を越えるところから始まって、
手足の力を使って登っていく、跳躍できるようになる、
そして、就学前には1メートル80センチくらいを跳べるようになる。
「うちは、それが他の遊びのなかで出来るようになっている。
何十年と積み重ねてきた集大成で、日常生活の中で
最終到達点に向かって、子どもの体力を養うプログラムができている」
音楽や体育など、遊びのなかで発達を促すカリキュラムは多種多様にあり、
楽器演奏を通じた子どもの発達の過程のレポートは、
日本保育協会の奨励賞を受けている。
「専門委員会や園長会なんかで、施設の垣根を越えた
先生たちの連携ができていて、
皆さんが、次はどうする、次はどうする、と考えてくれる。
比嘉先生から直接、話を聞いたのは私が最後だけども、
皆さんが、懸命にその精神や実践をつないでいこうとしてくれている」
都島友の会 80周年史『つなぎ、つないで。』
比嘉正子本人が記した創設10 周年史『語りつぐ10年』に始まって
10 年ごとに発行している都島友の会の周年史『語りつぐ』。
渡久地さんは、発行責任者になった80周年史を機に、
表題に、『つなぎ、つないで。』という言葉を加えた。
正子の姿を間近で見つめ、肉声を聞き、吸収してきた渡久地さんは、
その思いを継ぎゆくために、広報活動にも力を入れた。
※ 次回の更新は9月30日(木)です。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
『ゆんたく 都島』社会福祉法人 都島友の会発行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
?継ぎゆく人
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
町づくり事業の脈所の一つとして
都島区の友渕地区、桜宮地区の保育施設の建設と運営を任され、
一方で理事として法人経営に携わるようになった渡久地さん。
1993(平成5)年には
本園と呼ばれる都島児童センターの園長になった。
この都島児童センターは創設者比嘉正子が
1931(昭和6)年に公園を園舎にはじめた青空幼稚園が、
戦中戦後の混乱を超えて築きあげられた都島児童館の名を改めたものである。
渡久地さんが、社会福祉法人「都島友の会」の起点である
都島児童センターの園長に就任した前年の1992(平成4)年11月に、
創設者比嘉正子さんは逝去している。
話は少し逸れるが、正子の亡くなった日について
渡久地さんが、ふとこんなことを洩らした。
「ご自身の子ども2人を同じ年に立て続けに亡くしたでしょ。
長女の亡くなったのが1月、長男の亡くなったのが2月、
だから私は3月に死ぬんだと、ずっと言うてはった。
ほんで、11月に亡くなってんけどね」
正子の声や表情を懐かしむように話す閑かな笑顔から、
なんともあたたかな親愛の情が伝わってきた。
敬愛する比嘉正子の志を継ぎゆく日々の始まりであったが、
創設者比嘉正子の存在の大きさを語るように、
正子なき都島友の会が円滑に動き始めるまで数年を要した。
要を失って、人間関係がもつれ、考えの食い違いが生まれた。
2代目理事長の補佐を担い、
組織をもう一度まとめあげるために奔走した日々を渡久地さんは、
様々な方々に助けていただきながら一年一年を乗り越えたと振り返る。
雨降って地固まるではないが、一年一年を乗り越えた都島友の会は、
1999(平成11)年から、デイサービス、高齢者施設の開設と、
事業の幅を広げはじめた。
比嘉正子が目指した揺りかごから墓場まで、
あまねく生活者に向けた福祉の実践に乗り出したのだ。
都島友の会が、新たなステージに足を踏み入れて間もなく、
2006(平成18)年、渡久地さんは第3代理事長に就任した。
第3代理事長 渡久地歌子さん
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』より
創設者比嘉正子が目指した福祉を
時々の町の姿に応じて実現していくために
理事長となった渡久地さんは新たな組織づくりに着手、
指示系統の一本化を行い、マネジメントに関する法人本部を設置した。
保育、高齢など各事業の見直しを行い、
創業者の理念に基づいた骨太の方針をあらためて打ち出した。
そして、事業部門や施設の垣根を越えて職員たちが学び合う環境を整えた。
法人を支える裾野を広く強固にするために広報にも力を入れた。
これだけのことを、理事長になって4、5年の間に推し進め、
新たな組織づくりの基礎固めの上に、創設80周年を迎えた。
次いで、2011(平成23)年からは、90 周年に向けて、
都島友の会の発展に向けての取り組みをはじめた。
歴史とともに旧くなった建物の改築や建替え、新たな事業の開設と、
比嘉正子から受け継いだ「次はどうする、次はどうする」の
都島友の会の精神で常に前進し続けた。
90周年に向けての10年には、
都島友の会の原点回帰ともいえる「幼保連携型認定こども園」に
向けての全力疾走があった。
「幼保連携型は、1931(昭和6)年の創設以来、
保育と教育を両輪としてきた福祉的幼稚園の姿そのもの。
比嘉正子が目指したものが制度になった。
それは私たちの原点」。
理事長就任から15年、
創設者比嘉正子から受け継いだものを、次代へと繋いでいくために
渡久地さんが取り組んで来たこれらが、どう進んで来たかを見ていこうと思う。
と、その前に、新しい組織づくりについてひとつ。
「ここまで聞いてもらって」と渡久地さんが言った。
「都島友の会、私が3代目(理事長)でしょう。
これが民間と公立の間の、都島友の会の良さだと理解してもらえたら
嬉しいんです」
初代だと、私財を注ぎ込んでつくった施設に対して、
自分のものだという思いが生まれても不思議ではない。
その思いの強さから、
絶対に自分の保育カラーを出したいという園も出てくる。
そしてそれをそのまま親族が受け継いで、
”私”の感覚が増幅していくこともある。
「そういう所を、都島友の会はもう脱皮している。
皆でつくりあげる友の会になっている。
保育方針の裁量を持った民間の良さ、
公立と民間の間、自分たち皆でつくりあげる良さ。
そういうものを私は狙っている」
創設者比嘉正子が遺した理念を背骨に、皆でつくりあげていく都島友の会。
そのビジョンに向かって渡久地さんが組織づくりで実行したことがある。
それは、法人内に職を持つ創設者一族について特別な処遇を行わないことだった。
誰もがその適性と能力に応じた所で仕事をする適材適所を徹底した。
「時に非常な判断もしましたが、きっと、この人ならそうした」と、
机の上に置いた比嘉正子の写真を見つめて渡久地さんは言った。
戦中戦後の混乱のなか、家族の命を守るためにと
比嘉正子が中心になって、下駄履きのおかみさんたちで始めた米よこせ運動。
このおかみさんたちの運動は、戦後、消費者運動へと発展した。
1947(昭和22)年の「主婦の会」の結成だった。
台所の心配をするおかみさんたちの会なのだから、
気負わず「主婦の会」と名づけた比嘉正子。
会の組織構成についても、こう述べている。
『今までは役にも立たないのに、夫の七光りや金持ち、
旧家というだけで役員に選ばれていた。
だから、その役名が名誉の勲章をもらったような人はやめましょう」。
創設者の縁者血縁であるということは、組織の中での役割に無関係である。
あくまでも、その役目に相応しい人を抜擢していく。
皆でつくりあげる開かれた組織をつくる。
民間と公立の間、自分たち皆でつくりあげる組織。
渡久地さんが目指す新しい組織の形の根底にも、
創設者比嘉正子の心が息吹いている。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
『ゆんたく 都島』社会福祉法人 都島友の会発行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
?継ぎゆく人
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
1983(昭和58)年、渡久地さんは都島友渕保育園の園長に就いた。
新しい町づくりの一翼を担う新しい保育園の園長就任。
それは渡久地さんにとって、「それまでの経験や学び、
その一つひとつを積み上げていくようなもの」になった。
園長として渡久地さんは、保育について大きな方針を掲げた。
『させる』から『する』への転換だった。
方針を徹底させるために日常的な言葉遣いを改めるところから始めた。
「『子どもにさせる』という言葉遣いがあったんですね。
大人にはしない言葉遣い、
『今日はこれをさせておく』というような。
ちょっとこれは、子どもの自主性にいいのかなあ、
『子どもがする』という言葉に直したら、
どういう姿勢が生まれるのかなと考えたんですね」
話す言葉も、記す言葉も、すべて改めた。
「今日は粘土をさせる」だったのを「今日は粘土をする」に変えた。
すると職員たちの間で、
子どもがするための環境づくりはどうなんだという話があがった。
そしてそれが保育指針に反映されていった。
園長として渡久地さんが出した大きな方針、『させる』から『する』への転換。
その発端となった「子どもの自主性にどうなのかなあ」という問いは、
創設者比嘉正子の、子どもの自主性を尊重するという
保育に対する大きな考えを受け継いでいる。
生活者という観点を持った比嘉正子にとって
子どもたちもまた大人と同様に生活者だった。
大人と同じように、子どもにも人としての権利がある。
1948(昭和23)年7月20 日、『こどもの日』が制定された。
『こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、
母に感謝する(祝日法2条)』と謳われた日だ。
この『こどもの日』に正子は子どもの権利を謳うパレードを行った。
「こどもの平和」をと、園長比嘉正子を先頭に町を行進する子どもたち。
1955(昭和30)年5月5日。『かたりつぐ70年』より
「今でいうデモみたいなものになるかな。
子どもたちがこの辺りを練り歩いたんだそうです。
それから、子どもが総理大臣になって、
僕らの主張、私たちのことを聞いてください、ということをしたんです」
意見を発表する子どもたち。1955(昭和30)年5月5日
『かたりつぐ70年』より
そういった子どもの権利、女性の権利というのが
比嘉正子の活動原理であったと語る渡久地さんにとって、
子どもの自主性にとってどうであるかという問いが
保育方針の基礎にあったのは必然のことだった。
「子どもをのびのびさせるのではなくて、
子どもがのびのびする。
そういう環境をつくっていくことが保育者の役目。
もちろんルールはある、集団生活だから」
施設の増加拡大、組織強化と法人運営の立場から支えてきた
比嘉正子が目指す福祉の姿を、
子どもたちの保育と教育の現場で実践することになった。
0歳から5歳の、三つ子の魂が育つこの時期は、
子どもたちの将来の基盤となる。
その時期の子どもたちが、ともすれば家庭よりも長い時間を
過ごすことになる環境をどうつくっていくのか。
子どもの自主性を重んじ、一人ひとりの個性を充分に伸ばそうする
自由保育について、比嘉正子はこう述べている。
『自由保育というのは、子どもの意識では自由であって、
そこに用意された環境や、保育者の心の通った誘導により、
豊かな経験や活動を行うことによって、
子どもの心身が正しく伸ばされるものをいうのである。
いろいろな特徴を持った子どもが集まって、
しかも皆平等であるが、勝手気ままは許されない。
集団生活のなかでは、よそでは求めることの出来ない経験が得られ、
そういう所でこそ、皆と楽しく遊ぶには、
どうしていけばよいのかを学ぶことができるのである。
言いかえれば、子どもたちは、保育所に通って
仲間との生活から学習できるのであり、
保育者は、その仲間を上手くつなぎ、活動できるように舵取りをするのである」
ルールはある、集団生活だから、という渡久地さんの言葉の根がここにある。
「保育と預かりは違う。
子どもの育ちに適した教育があってこそ」と渡久地さんは言う。
そしてその教育には、保育者の優れた技術が必須であると
創設者比嘉正子の考えを受け継いでいる。
この都島友渕保育園の園長就任の翌年1984(昭和59)年、
渡久地さんは理事となり、法人の経営に携わっていく。
そして1990(平成2)年、再び新たな町づくり事業に携わる。
大阪市がJR桜宮駅近く、旧国鉄貨物駅の跡地を
医療、保育、高齢者施設を備えた新しい町として開発するにあたり、
都島友の会が保育部門を受け持つことになったのだ。
この事業でもまた、渡久地さんが建設担当となり、
翌1991(平成3)年、完成した都島桜宮保育園の園長も兼任した。
都島友渕保育園の園長になって10年後の
1993(平成5)年に、複数の施設なかで本園と呼ばれる
都島児童センター(都島児童館改め)の園長に就任、
2006(平成18)年、第3代理事長に任命される。
子どもにさせる、から、子どもがする、へ。
創設者比嘉正子の大きな保育方針に基づいて
都島友渕保育園の園長として打ち出した保育の方針は、
渡久地さんのキャリアとともに、
都島友の会の保育方針として浸透し、現在に受け継がれている。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
『ゆんたく 都島』社会福祉法人 都島友の会発行
JUGEMテーマ:社会福祉
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
?継ぎゆく人
x? 町づくりの一翼として
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
x? 町づくりの一翼として
法人全体の組織強化を視座においた運営に従事して4年目の
1981(昭和56)年、渡久地さんは新たな任務についた。
都島区友渕地域の町づくり事業の一端として
都島友の会が保育所新設を引き受けた。
その建設担当が渡久地さんだった。
この町づくり事業は、鐘紡株式会社の跡地を日本住宅公団が
高層住宅街にするというものだった。
5000所帯を迎える構想で、医療と福祉の町というコンセプトのもと
子どもと老人の施設と病院を町のなかに据えることが含まれていた。
友渕という土地の歴史は古く、その地名の縁起は
仁徳天皇(在位西暦313−399)の時代まで遡る。
友渕の“とも”は船泊まりを、“ふち”は川の水の深いところを意味し、
遣唐使や遣隋使の船もここに泊まったと
住吉大社の縁起にも記されているそうだ。
渡久地さんは、新しい町づくりの一翼を担う子どもの園づくりに、
この土地の歴史を取り入れた。
「建物を、停泊している船の形にしました。
子どもたちが友だちを求めて、その渕に集まるよという意味を込めて。
皆、船までおいでと。
そして、あの辺りは昔、鎮守の森のある緑豊かな土地でした。
新しい町づくりも、緑豊かにということでした。
だから、空から見ると、森を羽ばたく鳥の姿に見えるようにしました。
横から見ると子どもたちが集まる船、上から見ると森を羽ばたく鳥。
そこに、比嘉正子が大阪万博の委員をしていたので、
太陽の塔にちなんで、太陽の顔もつけました」
友渕保育園
『語りつぐ60年《こどもの園》』より
30年の時を経た今、壁の塗り替えによって
大きな船に見えるようになっている。
そして子どもたちの制服は、昔から変わらずセーラーカラーだ。
セーラー服を来た子どもたちが、
友渕の渕に泊まった船に集まってくる光景はずっと変わらない。
2018年、改修工事を終えた友渕児童センター
2015年の幼保連携型認定こども園を機に、
友渕保育園から友渕児童センターに改称。
広報誌『ゆんたく都島Vol.33』より
町づくり事業の一翼を担い、建築に凝らした思いは
建物の形、外観だけでは、もちろんない。
「いちばん良いものを提供することが地域貢献である」という
比嘉正子の考えが、渡久地さんのなかに根づいていた。
新しく建つ高層住宅で暮らす人たちの感性に合うように
空間づくりの細部にまで気を配った。
昭和の初め、託児所と幼稚園が一緒になった福祉的幼稚園をつくった
比嘉正子は、自分がどれほど資金繰りに奔走することになっても、
見窄らしい館(YAKATA)をつくることはなかった。
当時、貧しい家庭の子どもたちを無料で預かる場所という
託児所のイメージを覆す園舎と園庭を整えた。
家庭がどうこうあっても子どもたちは平等だという考えを、
いちばん良いものを提供するという行動で実現した。
貧しくても暗くあってはいけないと、
ここにくれば朗らかになる子どもの園をつくった。
「私にも、見窄らしいんですというような格好はしなさんなと、
おっしゃいましたね。
若いとき、しょっちゅう隣のお好み焼き屋さんで食べていたの。
そしたら、お好み焼き屋さんに行く回数を減らして、
何回かに1回はホテルのロビーに座りなさいと。
いろんな方が、今まであなたが見ていないような方が通るから、
そこでコーヒーが700円であろうが800円であろうが惜しくないよ、と」
そういう時間を過ごすなかで身につけた豊かさ、優雅さが
園の雰囲気に醸しだされていく。
そういう空気のなかで子どもたちを育てなさいという教え。
友渕保育園はもちろん、法人の施設づくりにおいて
渡久地さんがずっと守り続けていることだ。
友渕保育園が落成し、開園となった1983(昭和58)年、
渡久地さんは園長に就いた。
新しい町づくりの一翼を担う保育園の開設。
その本領の始まりだった。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
『ゆんたく 都島』社会福祉法人 都島友の会発行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
?継ぎゆく人
ⅻ 時代のなかで
x? 町づくりの一翼として
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
ⅻ 時代のなかで
渡久地さんが保育の道に進んだ1970 (昭和45)年は、
日本万国博覧会開催の年であった。
当時の世相を見てみるとウーマンリブや歩行者天国がブームとなり、
旧国鉄が「ディスカバー・ジャパン」を、
富士ゼロックスが「モーレツからビューティフルへ」を惹句に
キャンペーンを行った。
人々のライフスタイル、社会の姿が大きく変わる最中(さなか)だった。
その時代の変化に社会福祉法人「都島友の会」も応じた。
「福祉はすべての人が健康で文化的かつ快適な生活が守られ、
豊かな人間生活ができることを内包するものでなければならない」。
この理想のもと走りつづける創設者比嘉正子。
社会の形がひとつの転換期を迎えたこの時代に、
比嘉正子の片腕として渡久地さんも、
正子の社会事業の起源である保育を軸に福祉の道を走りはじめた。
現理事長として法人経営を担う渡久地さんのキャリアは
大きく3つの柱から成っている。
<施設の増加拡大><法人の組織強化><施設の運営>である。
<施設の増加拡大>は、女性の社会進出に伴い、
質量ともにキャパシティを伸ばしていくために不可欠な事業だった。
質というのは、様々な子どもたちを受け入れる環境づくりである。
青空幼稚園の時代から一貫して続けたきた
0歳児から学童まで保護者が安心して子どもを預けられる
館(YAKATA)を作ること。
そしてこれも制度以前から、必要とする人に差し伸べる手として
続けてきた障がい児保育の充実。
受け入れる子どもたちの数、分母が大きくなれば
子どもたちの多様性も増していく。
1972(昭和47)年、都島児童館は現在の所在地へと移転、
都島児童センターと名称も新たにした。
児童館、保育所、身体障がい児療育園、学童保育、
そして、保護者や地域とつながる広場としてのこども劇場と、
新しい建物はさらに多機能性を実現した複合的施設だった。
新しくなった都島児童センター
『語りつぐ60年《こどもの園》』より
都島乳児保育センターの事務所に勤務していた渡久地さんは、
乳児保育待機児童解消のための新しい施設の建設も担当することになった。
1973(昭和48)年に開設した都島第2乳児保育センターだ。
1969(昭和44)年に渡久地さん自らが建設担当として奔走した
都島病院を閉鎖しての改築だった。
そこには、町の地域医療の環境も整っていくなか、
都島友の会は本領である保育に集中していくべきだという
正子の判断があった。
渡久地さんが、創設者比嘉正子から受け継いでいるものの1つと語る、
「次はどうする、次はどうする」の精神がここにも表れている。
都島第2乳児保育センター
『語りつぐ60年《こどもの園》』より
乳児保育センター勤務から6年経った1976(昭和51)年、
渡久地さんは都島児童センター勤務となった。
幼児の保育と教育、障がい児の療育、学童保育を学びながら
施設の運営に携わる日々が始まった。
施設の増加拡大が進むなかでの施設運営は、
法人の組織運営にも関わることだった。
この時期、都島児童センター、都島乳児保育センター、
都島第2乳児保育センターに加えて、
沖縄県に2つの保育園を開設、
さらに大阪市から保育園と障がい児通所施設の運営受託と、
施設の増加拡大は一気に進んでいた。
施設運営に際して法人としての統一化が必要になった。
それまでは各施設それぞれに取り組んできた
保育の内容、職員の採用と処遇、そして経理などについて
法人としての統一化を図っていった。
時代に応じた変化の必要性は分かっても、
自分たちが築いてきた方法を他からの力で変えられるというのは
なかなか受け入れ難いものだ。
渡久地さんよりもキャリアのある施設長との間に軋轢も生じた。
非難を浴びることも少なくなかった。
それでも、為すべきことは為さねばならなかった。
都島友の会が、時代とともに、町とともに生きていくために、
逃げず、折れず、乗り越えた。
このときから30年後の2006年に3代目理事長となった
渡久地さんは法人本部を設置して経営の一本化を図るのだが、
このときの組織強化の奮闘が、その礎となっている。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
『ゆんたく 都島』社会福祉法人 都島友の会発行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
?継ぎゆく人
ⅺ 保育の道へ
ⅻ 時代のなかで
x? 町づくりの一翼として
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
ⅺ 保育の道へ
1960 年代半ば(昭和40年代)、女性の社会進出が進んだが、
当時の制度では0歳児保育はまだ行われていなかった。
1950年、戦後の混乱が残る中で再建した都島児童館では、
産後すぐにでも働かなければ暮らしが立ちいかぬと
助けを求める声に応じて乳児も預かり、
1960(昭和35)年には、厚生省の実験的開拓事業として
0歳児を受け入れる乳児保育専門施設『都島乳児所』を開設していた。
女性の社会進出が加速的に進みはじめた1966(昭和41)年、
創設者比嘉正子は「都島乳児保育センター」を開設。
定員は90名、社会の動きを見つめ、地域の人の必要に先駆けていた。
さらに、この「都島乳児保育センター」の2階から4階を2DKの
賃貸住宅『あやなす荘』として、乳児保育センターの利用者に低家賃で供給した。
この『あやなす荘』の建設に際しても、比嘉正子という人の
社会事業への熱意が伝わってくる。
当時、1階を事務所や店舗に貸して、2階以上を集合住宅にした
下駄履き住宅の建設が盛んだった。
これにヒントを得た正子は、住宅金融公庫の中高層住宅への貸付金を利用して
乳児保育センターの上に賃貸住宅を建てようと考えた。
当時、制度にない乳児保育施設を作るには、
資金のほとんどを自己調達しなければならなかった。
賃貸住宅を併設することで『都島乳児保育センター』の建設と運営の費用を
調達しようと算段したのだ。
しかし、前例がないということで受け付けられなかった。
しかししかしだ、ここで黙って引き下がる比嘉正子ではなかった。
「政府の住宅政策は金儲けばかりを考えないで、社会事業にも貸すべきだ」と、
中央の元締めまで直談判に乗り込み、2年目に許可を手にした。
あやなす荘の入り口。
『かたりつぐ70年』より
地域の人たちの生活を見つめ、必要に応じた環境づくりに尽くす
比嘉正子の行動の先駆性についてもう少し記す。
この『都島乳児保育センター』が完成した当時、団地の建設が進んでいて、
子育て世代の入居者たちから団地内に乳幼児を預かってくれる施設が
あれば助かるという声があがってきた。
1階が乳児保育センターの、しかも低家賃で入居できる住宅は、
やがてあがるだろう生活者の声に先駆けていたのだった。
乳児保育所建設の世論がかまびすしくなると、
厚生省の予算編成にあたって『都島乳児保育センター』が参考事例に選ばれた。
さて、1969(昭和44)年、都島病院の改築担当の任を成し遂げた
渡久地さんは、1970(昭和45)年9月、
この『都島乳児保育センター』の事務所勤務を言い渡された。
国の監査を受けて、乳児特別対策費として保母加算がつくかどうかの
瀬戸際だった。
保育所の収支業務は、病院とはまるで異なるものだった。
「分からないなら、分かるまで聞きなさい」、
困ったと泣き言を言ったところで、
比嘉正子から返ってくる言葉は分かっていた。
先輩たちに教わりながら、渡久地さんは役目を果たした。
『都島乳児保育センター』の事務所勤務になったこのとき、
渡久地さんは第一子を出産したばかりだった。
センターの上階のあやなす荘に入居、
乳児保育センターに生後1か月の我が子を預けての勤務だった。
朝、乳児室に子どもを連れて行き、事務所での仕事の傍ら、
手があけば、園長や主任保母の手伝いをして保育について学んだ。
乳児保育センターの利用者であり、乳児保育センターの職員でありと、
両サイドで施設と関わっていたというわけだが、
利用する立場で、渡久地さんがドキッとしたことがある。
乳児保育センターの利用申し込みをした際に、窓口で措置児という言葉が使われた。
「措置児?」と思った。
0歳の我が子を措置児という言葉で呼ばれることに違和感を覚えた。
「措置児という言葉にドキッとした」渡久地さんは、
子どもたちのことを『措置児』と呼ぶ措置委託制度の意義や必要性、
措置費の仕組みや内容の勉強を始めた。
制度を利用する生活者の観点をもって福祉への理解を深めていくところから、
渡久地さんの保育の道が始まった。
都島乳児保育センター保育室内。
『かたりつぐ70年』より
保育の道にはいった当時から、
「都島友の会」の理事長として法人の舵取りをする現在まで
保育に関して大きな指針としているのが、創設者比嘉正子の
「いちばん良いものを提供することが地域貢献である」という意思である。
幼稚園における幼児教育が富裕層の特権であった昭和の初めに、
託児所と幼稚園が一緒になった、庶民のための福祉的幼稚園をつくったとき、
比嘉正子は、見窄らしさがあってはならぬということを徹底した。
託児所は貧しい家庭の子どもを無料で預かる施設という
当時のイメージを拭うような明るい園をつくった。
園庭には滑り台のついたジャングルジムやブランコがあり、
園舎内にはガスをひいた給食調理室があった。
子どもたちにとって楽しい場所だったに違いないことは、
当時の写真の子どもたちの溌剌とした笑顔からも伝わってくる。
都島乳児保育センターで保育の仕事を始めた渡久地さんは、
正子の言葉を胸に、保護者の肩の荷を少しでも軽くするには
どうすればいいか、何ができるかを考えた。
たとえば、オムツやふとんの購買に際しても、
どうすれば保護者の労力軽減に繋がるかと考えた。
正子が常々説いた、いちばん良いものを提供するというのは、
考えられる限り最も好ましい環境を提供するということだったのだ。
自身も都島乳児保育センターの保育室に生後間もない子どもを預けて
働いていた渡久地さんにとって、同年代の母親は
子育て仲間、今時のママ友だった。
彼女たちに意見を聞き、会話を重ねることで、
細やかなアイデアが生まれていった。
生活者の観点から血の通った環境づくりを支えてくれた
当時の子育て仲間とのつながりは、
50年経った今も、渡久地さんの宝物になっているという。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
『ゆんたく 都島』社会福祉法人 都島友の会発行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
?継ぎゆく人
? 突然の病院建設担当
ⅺ 保育の道へ
ⅻ 時代のなかで
x? 町づくりの一翼として
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
? 突然の病院建設担当
生活の安らぎに必要なことの1つとしての治療を届ける。
都島診療所でのそんな患者との向き合い方は、
渡久地さんを福祉の道へと導いた。
人との向き合い方という、福祉に対する姿勢の原点となった
病院での日々は、渡久地さんのそれからのもう1本の柱を育てた。
一つひとつ、いろいろな人の助けを得ながら仕事を覚える渡久地さんは、
初診から1、2か月が過ぎた患者の治療費の請求も担当するようになった。
レセプト請求のためには薬や病名についての知識が必要で、
医師たちに教わりながら覚えていった。
もとより看護師として医療の道を目指していた渡久地さんは
やがて薬の注文票まで書くようになった。
そうするうちに診療所の収支の流れが見えるようになってきて、
レセプト請求がいくら、薬剤の支払いがいくら、医師や看護師にいくらと
経理の資料作りまでできるようになってきた。
「都市銀行の支店長を退職なさった
比嘉先生の旦那さんが経理を見てくださっていたのですが、
聞かれる前に必要な資料を作っておくようにするうちに
経営のようなことも自然と知っていったんです」
そして病院の経営になくてはならない医師の確保。
これも渡久地さんの仕事だった。
診療所には内科と外科の医師がいたが、日曜は休み、
さらにどちらの医師も当直はきつい年齢だった。
「当直の先生を探しておいで」と比嘉正子からミッションが授けられた。
さてどうするか。
頼みの綱は、正子が以前に一度、
「この子、今度うちで働くことになったから、よろしくね」と
紹介してくれたことのある阪大病院の2名の看板医師だった。
「若いから何でもできたんやろうけど、
日時と名前を書いてもらう表を持って、
阪大の医局に『宿直表をつくって欲しいんです』と、厚かましく行った。
そしたら親切な先生が、1人、2人といて、
『もう、そこに置いとき』と言って、自分たちで名前を書き入れてくれた。
そのうち、名物みたいになって、私が行ったら、『あ、また来たわ』って(笑)」
経営についての知識と実行力、そして福祉の心。
今、担っている第3代理事長としての仕事の礎を、
このとき、知らず知らずに築いていたというわけだ。
そんな渡久地さんには、さらなる大仕事が待ち構えていた。
診療所で働きはじめ数年経った1968年、
渡久地さんは比嘉正子から、
「診療所を近代的な病院に建替えるから、任せたよ」と言われた。
建替えの話そのものが寝耳に水、しかも建替え担当者である。
突然言い渡された大役に、渡久地さんの頭の中は
「逃げたい、逃げ出したい」という言葉が渦巻いた。
しかし、比嘉正子は逃げることを認めない人だった。
知らない、分からない、は、できない、の理由にならなかった。
「比嘉先生は、そういうところは怖い人でしたよ。
分からないなら分かるまで教えてもらいなさい。
5回聞いて分からなければ、10回聞けばいい。
分かるまで学べばいい。
私はいつも逃げたい、逃げたい、
でも比嘉先生は逃がしてはくれなかった」
その数か月後には園庭のある福祉的幼稚園「北都学園」をつくり、
戦時中には世間や軍の圧力に屈せず、
助けを求める母親たちの声に応えてギリギリまで戦時保育所を続けて、
戦争が終わると、待っている子どもたちの声と母親たちの姿に、
そして次は子どもたちの生命を守る「都島病院」の開設、
助けを必要とする人の声に、姿に、
次はどうする、次はどうすると動き続けて来た比嘉正子という人は、
自分に逃げるということを許さずに来たのかもしれない。
その気迫が、渡久地さんを逃がさなかった。
さらにこの当時、比嘉正子は政財界への提言をする人になっていた。
ここで少し、日本の保育と幼児教育のパイオニアであった
比嘉正子のもう一面について触れる。
「17歳、18歳の多感な時期にアメリカ人宣教師のミス・ミードに出会った。
そこで比嘉正子は、アメリカ的な考え方の影響を受けた。
幼児教育についての考え方もそうだけど、
女性の在り方についても、当時の日本的な考えではなかった」。
比嘉正子という人を公私にわたって見つめてきた渡久地さんの言葉だ。
戦時中の疎開先、鴻池新田の村で、
正子は日本で始めての消費者運動を起こした。
食料統制で配給される食べ物だけで足りるものではなかった。
統制外の食料が売買される闇市は法外な値段で、
生活が追い詰められた庶民の手の出るものではなかった。
ここでも正子はやはり、次はどうする?と動いた。
「生活の苦労をしているわてらが立ち上がらんと、食料危機を突破できん!
食卓に食べ物を並べて、子どもらの生命を守るのは、わてらおカミさん。
おカミさんたちで衣食住を守りましょう!」と声をあげた。
そして、それまでに培ってきた経験をフル活用し、アンテナを張り巡らせた。
統制品が役所に届いたと情報をキャッチすると、
『米よこせ』と書いた旗を振って、
風呂敷を担いだ下駄履き姿で役所に乗り込んだ。
首尾よく手にした米を持ち帰り、村のおカミさんたちで分けた。
儲けを上乗せしていない安価で手に入る米は、
おカミさんたちの行動力を呼び起こし、「主婦の会」が生まれた。
この「主婦の会」という名称も比嘉正子が中心になって決めた。
「台所の心配をするのが、わてらです」。
あくまでも生活者の観点に立つ、
子どもを亡くし、2度と仕事はするまいと決めた正子の心の底にあるものは、
社会事業に身を捧げていたころと同じであった。
「当時の日本の女性には珍しかったと思います。
やはり、多感な思春期にアメリカ的な考えや空気に触れた影響が
大きかったのだと思います」
比嘉正子は生活の安全をまもるために消費者テストも実施。
年に一度、おかみさんたちの学びの一貫として開いた
消費者大会で、その結果の展示も行った。
原写真は『語りつぐ80年 つなぎ、つないで』より
戦後の混乱、高度経済成長による生活環境の変化、
そういう時代背景が正子に要求したものは、
子どもの生活を守るために、より広く社会へ目を向け、
生活者の声を届けていくことだった。
次はどうする、次はどうすると「都島友の会」を前へと進めながら、
子どもたち、地域の人の生活に関わる社会づくりへの関与。
体がいくつあっても足りない比嘉正子の分身として
渡久地さんが求められた役割は、とんでもなく大きなものだった。
「逃げたい、逃げたいと思っても、逃げられないから。
病院の建替えってどうするの?と、何にも分からないままに、
毎日、毎日、院長先生に叱られながら、やりました」と、
病院を近代的に建替えるという寝耳の水の大仕事をどうやり遂げたか、
今は笑い話と失敗談も懐かしそうに渡久地さんは話しはじめた。
建築は、ちょうどそのころ病院近くに建った大阪市の供給公社の
分譲住宅を手がけた設計会社と建築会社に依頼することに決めた。
病院長、設計会社の人、建築会社の人にいろいろ聞きながら、
右往左往で進めていたある日、病院長が血相変えてやってきた。
「病院の上に赤十字をつけたの。
そしたら、院長先生がものすごい怒って
『うちは赤十字病院と違う!』って。
でも、わたしはテレビで見たんやけどなあと思って(笑)。
で、『緑色に変えろ!』と。
設計屋さんも分からなかったのに、私も分からないよね。
それで、緑色に変えた。
ほんとに、院長先生に、毎日よう怒られてたけど、
あのときは、すごい剣幕だった(笑) 」
1969(昭和41)年、無事、都島病院の建替えが完成、
ベッド数100床の近代的な施設になった。
後に理事長として都島友の会を率いることになった渡久地さんは、
町の姿に即応した館(YAKATA)づくりに力を入れる。
創設者比嘉正子の志を、時々の社会の中に生かすために
揺りかごから墓場まで、町の人の生活を明るくする館づくりの
知恵と力の基礎もまた、この病院の時代に培ったのだった。
病院の建て替えという大仕事をやり遂げた渡久地さんは、この後、
比嘉正子の社会事業の起点である保育の道へと歩みを進めることになる。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
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『ゆんたく 都島』社会福祉法人 都島友の会発行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
?継ぎゆく人
? 比嘉正子が撒いた種、福祉の心
? 突然の病院建設担当
ⅺ 保育の道へ
ⅻ 時代のなかで
x? 町づくりの一翼として
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
? 比嘉正子が撒いた種、福祉の心
社会福祉法人「都島友の会」第3代理事長渡久地歌子さんと
創設者比嘉正子との出会いは1962年の春。
この出会いが、渡久地さんを福祉の道へと進ませた。
看護師を目指して単身大阪に来ていた渡久地さんに、
正子がひと言「うちにおいで」と言ったのがすべての始まりだった。
「ほんとうに、そのひと言だけでした。
予定していた看護学校との縁が、
タイミングが合わずに流れてしまった私のことを
共通の知り合いから聞いた比嘉先生が、
私を呼んで『うちにおいで、うちに来たらおもしろいよ』と。
覚えているのはその言葉だけ」
おおらかな逞しさ、あなたと同じ地平に立っているよという
気取らぬ朗らかさ、両手を広げて迎え入れる包容力のようなものを
目の前の女性に感じたのだろうか、
18歳の渡久地さんは、比嘉正子が夫と2人で暮らす家に身を寄せた。
服選びのアドバイスをくれたり、
流行の映画の話を聞かせては映画館に連れて行ってくれたり、
社交のマナーを教えてくれたりと、
穏やかで紳士的な比嘉賀盛も、渡久地さんを温かく迎え入れた。
4、5か月が経ち、大阪にも慣れたころ、
「都島診療所を手伝いなさい」と正子が言った。
都島区に保健所も1つの病院もなかった1951年、
都島保育所の園児たちを守るために比嘉正子がつくった『都島病院』が、
このときには『都島診療所』として、地域医療や
低所得者救済病院としての役割も担うようになっていた。
戦後、地方から出稼ぎに来て、住所不定のまま暮らしている男性たちがいた。
都島から橋を1つ挟んだ大阪の天神橋筋6丁目あたり、
比嘉正子が社会事業への最初の一歩を踏み出した
大阪市立北市民館があったあたりには、そういう人たちの溜まり場があった。
都島診療所の患者は、地域の人が3分の2、
3分の1はその溜まり場の低所得者の人たちだった。
高度経済成長の一方で、病気になっても身の寄せ場の無い人たちもいた。
「道で行き倒れたおじちゃんが運ばれてくるんです。
すると、治療のほかに、することがたくさんあるんです。
保険の無い人はどこからお金をもらうのか、
保証人も身内もいないときには、民生委員さんへ連絡をする。
医療保護や生活保護の手続き、そういうことが、わたしの仕事でした。
区役所の福祉課に行って、当時のことですからね、
この人は国民保険に入ってますかと調べてもらったり、
保険証を失くしたという人に変わって番号を調べてもらったり。
いろんな人に教えてもらいながら、していました」
そんなことを続けているうちに、区役所の福祉課の人たちや
地域の民生委員たちとの繋がりができていった。
身寄りのない人の医療と生活環境を整えるための支援に慣れてきたら、
薬局の手伝いをするようになった。
診療所内は事務所と薬局が隣合わせに並んでいたので、
時間外に訪ねてきた患者に、薬剤師が用意しておいた薬を
渡久地さんが手渡すのだ。
直接接するようになり顔と名前を覚えた患者に
いつしか自分の方から声をかけるようになった。
受付けるときには「今日はどうされましたか」とひと言添えて、
診療後には「お大事にしてください」と見送った。
そういうちょっとした声かけから、
診療所の2階を寮に住んでいた渡久地さんと、
地域の人との付き合いが自然と生まれた。
「地域の人たちに人との接し方、地域とのつきあい、
福祉という人と接する仕事の礎を学びました」
当時を振り返るようにそう言って、渡久地さんは言葉を繋いだ。
「それから、おじちゃんたちね。
おじちゃんたちからも、教えられました」
治療が済んで退院となった人には、
病院を出た後に生活の立て直しを支援する施設『自彊館』を
紹介した。
元気になったとはいえ、肝臓を悪くしている人たちが多いので
その後の生活管理が出来る環境が必要だった。
ところが中には、
『あそこは窮屈や、この方が気楽でええ』と道で寝泊まりする人もいた。
せっかく身体を治したのに、そのまま道に放っておくわけにもいかず、
どうしていいやら困ってしまい、警察に相談に行ったこともある。
そしてもう1つ、忘れられない出来事として
渡久地さんはこんな話をしてくれた。
その夜、渡久地さんが診療所の2階の自分の部屋にいると、
下から医師が、「福ちゃん、ちょっと降りてきて」と
自分を愛称で呼ぶ声がした。
診療室に行くと渡久地さんの顔を見た医師が、
「すまんなあ、福ちゃん、ちょっと、血ぃ、ちょうだい」と言った。
病床にはもう顔色の無い男性が横たわっていた。
急な輸血が必要になったのだ。
「おじちゃんが、『すまんなあ』と涙を、ぽろんとこぼして息ひきとって。
『わたしの血は、どこに行ったん?』と、
『わたし、血ぃ、あげたのに、このおじちゃん死んで、
どうすんねんやろなあ、と言ったのが忘れられない」
そこから、葬儀をどうするのかということになった。
民生委員に相談に行くと、「私に任せとき」と優しく引き受けてくれた。
目の前で独り息をひきとる人を看取り、葬儀のことを考えるというのは、
20歳ごろのやわらかな感性にどのようなものだっただろうか。
その人の「すまんなあ」は、
助けを無駄にしてすまんなという詫びであったのか、
世話になったことへの礼であったのか。
1954(昭和29)年ごろの都島病院
『語りつぐ60年《こどもの園》』より
病院での人との関わり。
地域の人たち、おじちゃんたち。
そしておじちゃんたちの生活を巡って繋がった
民生委員、役所、警察の人たち。
「それが、私の人との向き合い方の礎になっているのだと思います」と
渡久地さんは言う。
「いま、乳幼児から高齢者、地域の皆さん、職員と、
様々な方への向き合い方、対し方の礎となっている。
その病院での経験が私の福祉に対する姿勢の
原点になっているように思います」
さらに、渡久地さんは、そうした病院での経験や関わりを通して、
困難な状況にある人に手を差し伸べるために、自分にできることは
何かを考えはじめた。
その学びを渡久地さんは、病院でしていたのではないだろうか。
生活者の観点から社会事業を続けて来た比嘉正子。
正子が生活者のためにつくった病院で、
人の生活を見つめ寄り添う時間の中で渡久地さんは福祉の心を自ら養った。
比嘉正子の「うちにきなさい」のひと言で始まった病院での日々。
それが、渡久地さんの胸の中に
福祉の心という種を蒔いたのではないだろうか。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
『ゆんたく 都島』社会福祉法人 都島友の会発行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
? 揺りかごから墓場まで、町の人を見つめる思い
?継ぎゆく人
? 比嘉正子が撒いた種、福祉の心
? 突然の病院建設担当
ⅺ 保育の道へ
ⅻ 時代のなかで
x? 町づくりの一翼として
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
? 揺りかごから墓場まで、町の人を見つめる思い
保育と幼児教育、学童保育に教育クラブ。
さらに母親たちへのケア。
子どもたちの今日と将来を豊かにするために必要だと思うことを、
正子は児童館の中で、どんどん実現していった。
託児所的役割と幼児教育を合わせ持つ独自の保育システムで始めた幼稚園。
戦況の厳しさの中、女手ひとつで家庭を守る母親の
切なる願いに応えた戦時保育所。
そして戦後の、今日を生き抜くために四苦八苦する人たちの声に応えての
多機能型児童施設とも呼べる「都島児童館」。
そのどれもが、当時の法令や制度にないもので、
ただ時々の人の暮らしに応じてある姿だった。
「先代は、『生活者』という観点を常に持っておられましたね。
『生活者』は、すべてになりますからね。
子どもも高齢者も女性も、なりますから」と、渡久地さん。
隔てや、線引きをせずに、生活者としてすべての人を見る。
児童館の子どもたちも生活者。
生活者として見つめることで、子どもたちの生活すべてに意識が向いた。
そして子どもの生活の先には母親の生活がある、
母親の生活の先には地域の生活、社会の姿がある。
そうした眼差しで見えてくる課題に対して、
比嘉正子という人は、次はどうするか、次はどうするかと動き続けた。
「都島児童館」として復活を遂げた翌年、1950(昭和25)年、
「財団法人 都島友の会」として認可を受けた事業内容は、
1. 児童福祉法による保育所
2. 児童福祉法による児童厚生施設
3. 社会事業法による医療保護
4. その目的達成上必要と認めたる附帯事業など
子どもの生活、子どもの命を守り育むために、
子どもと保護者の生活まで包含した正子の眼差しが伺える。
『都島児童館』を中心に、正子の活動は広がっていく。
財団法人 都島友の会の認可を受けた翌年、1951(昭和26)年、
正子は、「都島診療所」を開設した。
幼児のひとりが保育中に高い熱を出したのがきっかけだった。
区内には保健所も1つの病院もなかった。
安静にして水で冷やして熱を下げる応急処置をするしかなく、
セールスに出かけた親への緊急連絡もつかなかった。
子どもの生命を守ることは、何を差し置いても為すべきことだった。
このままにしてはおけない、何をするか、次はどうするか。
比嘉正子は、財団法人都島診療所を設立した。
土地、資金、そして医師。
正子の熱意への賛同者に恵まれて実現した。
診療所開設の翌年、1952(昭和27)年、財団法人から社会福祉法人へ改組、
法令的にも社会福祉事業者となった。
そしてこの翌年の1953(昭和28)年が、前述の『幼児生活クラブ』発足の年だ。
1960(昭和35)年、乳児保育の専門施設を立ち上げた。
2人目の子どもを身ごもった母親からの願いを聞いてのことだった。
新生児を預ける所がなければ仕事を辞めなければならない、
しかしそれでは生活が立ち行かない、
乳児も預かって助けてほしいという切実な願いだった。
この声を正子は、その母親ひとりの声としてではなく、
働く女性共通の切望であると受けとめた。
それまでも年齢の制限を設けることなく保育してきたのだが、
0歳児を受け入れる乳児保育専門施設を作った。
乳児保育所の開設は日本で初めてのことで、厚生省の実験的開拓事業とされた。
日本で初めての『乳児保育専門施設』
1961(昭和36)年、当時流行していたポリオによる
小児麻痺の子どもを都島保育所に受け入れた。
乳児保育の草分けとなった乳児保育所に続いて、
これも障がい児保育の草分けであった。
1966年(昭和41)年、女性の社会進出が進み、
乳幼児保育を利用して働く女性たちも増えていた。
住居と保育所が近ければより安全で便利になると、
正子は保育所の上を賃貸住宅にした乳児保育センターを建てた。
この少し後、団地内に保育所があれば助かるという声が上がりはじめた。
生活者としての眼差しが、世の中の人の声に先駆けて作った施設だった。
よき理解者であり、支援者であった夫
比嘉賀盛氏との和やかな時間
「社会的な不平等と貧困がある限り、人間は救われない」。
神学校で学んでいた10代の頃に胸に生まれたこの思いによって進んだ社会事業の道。
揺りかごから墓場までという理想を基盤に、比嘉正子は先ず、子どもたちに目を向けた。
保育と幼児教育を包含した「都島児童館」という館を中心に、
子どもの安全と生命を守るための環境を整えることに尽くした。
その眼差しは、自らも立つ所を同じくする生活者としてのものであり、
生活者を取り巻く社会を広く見渡すものであった。
「比嘉正子は、青空幼稚園、北都学園、そして都島児童館と、
託児所な保育と幼児教育を行う子どもたちの園のことを
福祉的幼稚園と呼んでいました。
それが、私たち都島友の会の原点です」
生活者という観点で、時々の人の暮らしを明るくする、
揺りかごから墓場まで、人が心身ともに健やかに暮らせるように、
次はどうする、次はどうすると、環境を整えることに
全身全霊を注いで生きた比嘉正子という人。
その人が撒いた種を受け取り、広がる根を守り、
町とともにある「都島友の会」を育て、次代へと継いでいるのが
現理事長の渡久地歌子さんだ。
次回 「?-? 比嘉正子の蒔いた種、福祉の道へ」へ
次回の更新は、7月1日木曜日の予定です。
創設者比嘉正子さんの福祉の心を、現在と将来に繋いでいく
現理事長渡久地歌子さんのストーリー。
新たな組織づくり、理念の浸透、そして事業の展開と、
町づくり事業の拠点の一つとして、
比嘉正子さんが目指した「揺りかごから墓場まで」を
実現していかれます。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
? 子どもたちのYAKATA「都島児童館」の誕生
? 揺りかごから墓場まで、町の人を見つめる思い
?継ぎゆく人
? 比嘉正子が撒いた種、福祉の心
? 突然の病院建設担当
ⅺ 保育の道へ
ⅻ 時代のなかで
x? 町づくりの一翼として
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
? 子どもたちのYAKATA「都島児童館」の誕生
今日を生き抜くために比嘉正子の助けを必要としている人たちがいる。
その現実に、正子は立ち上がった。
悔いと悲しみにくれる日々と訣別した。
私財を投じ、身を投じ、奔走する正子の姿に
資金の援助を申し出てくれる人もいた。
1949(昭和24)年11月、再建を決意したその年の秋、園舎が完成した。
正子はこの新しい私設幼稚園を「都島児童館」と名付け、
私立の草分けとして歩み始めた。
1949(昭和24)年当時の法令に児童館というものは無かったが、
正子はこの新しい子どもの園を「都島児童館」と名付けた。
そしてその中に、母親が働いている子どもたちの「保育部」と、
幼児だけで集団生活を学ぶ「幼稚園」を設置した。
「幼稚園と託児所が一緒になったようなものを私は作ったんだ」という
1931(昭和6)年の青空幼稚園からの比嘉正子の志が、ここにも息づいている。
木造2階建ての児童館の中に、正子は掘りごたつ式の図書室も作った。
その空間で過ごす子どもたちの姿はどんなであったろうか。
「都島児童館」として復活した園に集まった人たちの様子を
渡久地さんはこう語る。
「終戦後、法整備も何もまったく整わない中、お国や行政には頼れない。
けれど目の前には、困窮して苦しんでいる親や子どもたちがいる。
この人たちに何が必要なのか、どう助けることができるのか。
ご近所の皆さんや卒園生たちに建設を手伝っていただいて完成した館。
寄せ集めの材料で設えたあばら屋のような園舎とはいえ、
子どもたちにとっては雨風を凌げて宿題や勉強のできる楽園だったと。
それに保護者や近所の人たちが持ち寄ってくださる具材が入った
“ごちゃごちゃ煮”で、育ち盛りのペコペコのお腹も満たされたそうです」
翌1950(昭和25)年1月には、「都島保育所」として認可されて、
児童館の中の保育部は正式な法人格をもった「都島保育所」として
新たなスタートを切った。
戦争未亡人の子、母子家庭、低所得者の子どもたちが
定員40名を超えた50 名、集まっていた。
さらにこの年、3月、大阪府第1号の財団法人として認可を受け、
「財団法人 都島友の会」となった。
法人格をもつ保育所としての開所から1年、新たなニーズが生まれた。
保育所を修了した子どもの母親が正子に訴えてきたのがきっかけだった。
「保育所にお世話になっている間は、安心して働けました。
けど小学校に上がったら、私が仕事から帰ってくるまで
野放しにせなならんようになります。
預かってもらえる当てもありませんし、
人を頼むにもお金の工面ができません。
どないしたらええかと悩んで、夜も眠れません。
思いあまって、こうして先生に相談に来ました」
相談を受けた正子も思いあまった末、児童館で預かりましょうと引き受けた。
すると、保育修了と同時に同じ悩みを抱えている親と子が、
1人増え2人増えとどんどん出てきて、一集団となった。
これを必要としていた人たちは他にもいた。
戦争前に来ていた卒園児たちの両親も戦後のどさくさの中で働いていた。
その子たちにも帰る場所が必要だった。
「終戦から数年経ってはいたけれど、児童館の近くにある小学校に、
下の子を負ぶって行く子どもたちもまだまだいたんです。
その姿を見て、比嘉正子は『うちに置いていきなさい』と声をかけたんですね。
学校に行く前にここに寄って、弟妹を預けていく、
学校が終わるとここに帰って来て、
親御さんが帰ってくる頃まで過ごしていた。
自然に学童保育のようなことまでしていたんですね」と渡久地さん。
必要としている人に必要な助けをと、
1953年、館内に2つの保育室を増築して「幼児生活クラブ」を発足させた。
人に頼むにも金の工面ができないと、
思いあまって相談に来た母親を助ける策に端を発した
この「幼児生活クラブ」は、保母たちの奉仕に支えられて無料で行った。
「預かりと保育は違う」。
現理事長渡久地さんの言葉だ。
0歳から5歳まで、さらに学童期の成育環境は
その子たちの人生の基盤を成す。
その大切な時期に、できるだけ豊かな経験をできるように
環境を整えるのが自分たちの使命であるという強い思い、
創設者比嘉正子から受け継いだ思いのこもったひと言だ。
学校と家の間の学童たちの居場所となった「都島児童館」。
正子は児童館に帰ってくる子どもたちのために、
学校での学びの補佐をする教育クラブも作った。
習字や算盤、読書などの部屋を児童館の中に作っていった。
さらに正子は母親たちにも支援の目を向けた。
戦争で亡くなったり、戦地から戻らないままであったりと
夫不在のシングルマザーのための保護者会『母の会』を作った。
この『母の会』は現在『保護者の会』として活動を続けている。
「都島児童館」(1959(昭和29)年)
門の脇に掲げた看板には、<乳児幼児保育><幼児クラブ(戦前の幼稚園の名残)>
<学童クラブ(卒園生、小学生)><教育クラブ><母の会>の名が連なっている。
親が安心して子どもを託せる場であること、
さらに子どもたちが、健やかに伸びやかに育っていける環境を整えていくこと。
パプテスト女子神学校での学びの時代、
校長のミス・ミードが貧困というところに手を差し伸べていく姿に、
「社会的な不平等と貧困がある限り、人間は救われない」と煩悶し、
社会事業の道へ進むことを決意した20歳前の比嘉正子。
虚脱と懺悔の日々から立ち上がった正子が
戦後の焼け跡に復活させた「都島児童館」は、
若き日の青く光る志を実現していくためのYAKATAとなった。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
? 子どもたちが待っている
? 子どもたちのYAKATA「都島児童館」の誕生
? 揺りかごから墓場まで、町の人を見つめる思い
?継ぎゆく人
? 比嘉正子が撒いた種、福祉の心
? 突然の病院建設担当
ⅺ 保育の道へ
ⅻ 時代のなかで
x? 町づくりの一翼として
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
? 子どもたちが待っている
1945(昭和20)年8月15日、
疎開先の鴻池新田で正子は終戦を迎えた。
日本の敗北であった。
閉鎖から3か月後の6月、
幼稚園は大空襲で跡形も無く焼けてしまっていた。
情熱と行動の人、比嘉正子の胸は空虚であった。
埋めようのない空虚の底には、深く暗い悲しみと悔いがあった。
1944(昭和19)年、正子は我が子2人を失っていた。
16歳の長女と14歳の長男を、
1月19日、2月20日と立て続けに亡くしていた。
14 歳の長男は、「今日からでも都島に行って幼稚園を始めなさい」と
志賀支那人に言われた日、腕に抱いていた赤児である。
2人とも1年以上の入院加療の甲斐なく逝ってしまった。
戦渦の中、栄養や薬が不十分であったとはいえ、
母親として我が子を守りきれなかったことが正子の心を苛んだ。
正子は3人の子どもに恵まれた。
長女、次女、長男、そして温厚で誠実な夫とのあたたかな家庭。
穏やかな日々の中に埋もれていた社会事業への思い。
その思いが抑えようのない情熱となって甦った
1931(昭和6)年、27歳を目前に控えた早春。
その日から正子は、隔てなく子どもを保育する子どもの園を作り続けてきた。
幼稚園が富裕層にのみ許された特権的な教育の場であった当時に、
「子どもたちはどうこうあっても平等だ」という自らの言葉を
現実のものとするために闘い続けてきた。
その闘いの中で、母親としての時間が削り取られていったのは事実である。
最も必要としている人に届くまで手を差し伸べる。
水草の生い茂る川底の石を一つひとつ返して進むような歩みを、
正子は、自ら深い水に浸かり、続けてきた。
その間、我が子は岸辺にあった。
幼稚園の仕事で我が子の子育てに手が回らない正子の様子に、
次女を養女に引きとりたいと隣家の人から言われた。
女、女、男の三人兄弟姉妹の真ん中の子が、
ことさら不憫に思えた隣家の人は、それまでもその子を可愛がっていた。
正子は、小学校に上がる前の次女を養女に出した。
そして正子のもとで育った長女と長男。
十代半ばになるまで健康そのものに育ってきた2人が、
突然、立て続けに病床に伏した。
何を置いてもその子たちの側にいてやりたい、
それが母親比嘉正子の思いであった。
しかし、一人の母親としての思いだけで生きられる立場になかった。
正子は園長として一日たりとも仕事を休むことも遅刻をすることもなかった。
さらに戦時下にあって都島区の女子青年団長の重責を負い、
週に1度は、看護婦として立つ訓練と、戦いの訓練を行った。
“私心を捨てて大儀につく”のが当然で、私事を口にして、
家庭の都合で義務を逃れることは許されぬ世相であった。
仕事に向かう早朝と、仕事から帰る夜に我が子を見舞い、
もとから少ない配給食を、夫婦揃って削り、
少しでも栄養をと子ども2人に運んだ。
1年以上続いたこの暮らしについて正子はこう記している。
「クスリ不自由、栄養分はなし、母と職業の板ばさみ、
我が子と園児の生命を守る矛盾に耐えるため神経が
カミソリの刃のようになり、肉体はやせおとろえて、
ただただ気概だけで、生きてきたが、
我が子がどうなろうと、園児の生命を守ることが、
とるべき道だと決心した時、少しは気が楽になった」
何と引き替えても園児の生命を守ることがとるべき道。
そう決心した正子であったが、
我が子2人を守れなかったことは彼女の心に
贖いようのない罪となって刻まれた。
創設者比嘉正子の姿を間近で見続け、
その志を受け継いでいる現理事長渡久地歌子さんは、
「私は、背中に大きな十字架を背負っている。
何という愚かな罪深い母親だったか、悪い母親だったか」と、
自らを責める正子の姿を見るたびに、
自分の胸も切なさに張り裂けそうになった、
そして今も、その姿を思い出すたび、涙がこみあげると話す。
そうやって守り抜いてきた、子どもたちの園「都島幼稚園」。
それが大空襲で焼失した。
“私心を捨てて大義について”耐えてきた戦争は敗北に終わった。
正子の心は、もぬけの殻であった。
すべては終わったと思った。
そして、私は再び仕事をすまい、
悪い母親をもった子よ、許しておくれと、
懺悔する日々が続いた。
1949(昭和24)年、
大阪府から休園中の保育施設への復旧指令が出た。
期限内に復活の意思表示がなければ
自然消滅と見なすという期限付きであった。
2度と仕事はしないと
保育と幼児教育への情熱を封印したままの正子のもとを、
最初の修了児の母親の一人が足繁く通ってきた。
正子の帰りを待って、子どもたちが焼け跡の整地を始めていたのだ。
土地が残っているのだから、バラックでもいい、
幼稚園を復活させようと、
気力を失い、悔いの中に身を沈める正子を励ました。
正子の帰りを願う声はそれだけではなかった。
戦時保育所のころの母親から手紙が届いた。
「夫が戦死し、子どもを抱えて生活に困っております。
私だけではありません。
私と同じような戦争未亡人がいっぱいいて、皆、四苦八苦しております。
どうか、また以前のように助けてください」
大阪に帰りたいのだが、住む所と仕事はないだろうかと、
疎開先での先行きの見えない生活に疲れ果てた姿で相談に来る母親もいた。
その母親たちは、自分にも増してあわれであった。
人を思いやる悲しみが、正子の心を打った。
我が子らの墓を建立してやることと、
短い一生の記録を残してやることだけを生きる支えにしていた正子が、
もう1度、助けを求めている人たちのために生きようと立ち上がった。
手もとに、亡くした子どもの墓を建てるためにと貯めてきた15万円の金があった。
「死んだ子の墓を建てるより、生き残った人たちへの愛に使うべきではないか」。
そう決意して、正子は建設準備に取りかかった。
次回 「?-? 子どもたちのYAKATA「都島児童館」の誕生」へ
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
? 戦渦の中で
? 子どもたちが待っている
? 子どもたちのYAKATA「都島児童館」の誕生
? 揺りかごから墓場まで、町の人を見つめる思い
?継ぎゆく人
? 比嘉正子が撒いた種、福祉の心
? 突然の病院建設担当
ⅺ 保育の道へ
ⅻ 時代のなかで
x? 町づくりの一翼として
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
? 戦渦の中で
家庭がどうこうあれ、子どもたちは平等だと
希望があれば隔てのなく子どもたちを受けいれ、
青空幼稚園からはじまった私立都島幼稚園はどんどん発展していった。
経営者としての難儀は少なからずあっただろうが、
比嘉正子が撒いた種は根を広げ、芽を膨らませていった。
その一方、世相はけして明るいものではなかった。
日中戦争から第2次世界大戦へと拡大していった戦争の時代である。
保育において子どもたちの体力増進が求められた。
食料は配給制になり、その配給量も少なくなる一方で、
子どもたちの栄養事情は悪化した。
園舎の建設時に大阪ガスからの設備寄贈を受けて園には調理室があった。
母の会が輪番で続けてきた給食もやむなく中止となり、
食事時になると廊下に漂うあたたかな匂いも消えた。
日の丸弁当1つを持ってくるのがやっとで
空腹を訴える子どもたちを「欲しがりません勝つまでは」と、
保母たちは心ならずもたしなめるしかなかった。
1943(昭和18)年、正子は園を戦時保育所に切り替えた。
戦況は悪化の一途、大阪にも空襲が迫り、学童集団疎開が始まった。
まず妊産婦、幼児へと疎開の指示がなされ、
都島幼稚園の園児たちもその別ではなかった。
青空が暗雲に覆われた。
疎開を迫られた1人の母親が、正子のもとにやってきた。
「先生、疎開せなあかんことは私もよう分かってます。
よう分かってますけど…できませんの…。
うちの人が出征した日に、隣組や在郷軍人のお人らが
『銃後のことは心配せんでええ、心置きのう戦うてくれ』と励まして、
幾らかの選別もくださいました。
けど先生、その後は、やっぱり私が働かな生活できません。
疎開して田舎に行ったら、仕事がありませんねん。
どんなに危のうても、都会に残って働かな、あきませんのや。
せやからどうか、先生、子どもを預かってください」
大きな声では言えぬことだがと前置きしながら、
比嘉正子という人を信頼して胸を開いて訴える母親の姿に、
正子は園を戦時保育所に切り替える決断した。
預かる子どもは、出征軍人の幼児、戦争未亡人の児、疎開できない児、と決めた。
保育時間も午前7時から午後6時までと決めはしたものの、
実際には迎えがくるまで預かった。
園で過ごす子どもたちは明るかった。
先生やお友だちと一緒に、お話をして、お遊戯をして、
滑り台やジャングルジムではしゃぐ子どもたちの表情は明るかった。
その姿が、この子どもたちがいる限りここを守り抜くと正子の心を強くした。
戦時の園庭、ブランコで遊ぶ園児たち
『語りつぐ80年 つなぎつないで』
当時、工場という工場が軍需工場に転用されていた。
幼稚園の隣にあった工場も海軍の軍需工場となった。
戦局が厳しさを増すに従い、軍需工場の拡張も増し、
適当な場所と資材がどんどん欠乏していった。
軍はついに、正子たちの幼稚園の建物に目をつけ
買い取りの話が持ち上がった。
当時、軍に逆らうということはあり得なかった。
どれほど理不尽であると思っても逆らう余地はなかった。
しかし、正子は違った。
正子にとって、子どもを預かっているという責任感に勝るものはなかった。
戦時保育所となった園の子どもたちの母親のほとんどは、
軍需工場で働いていたり、
出征兵士の妻として幼い子どもを抱えて内職をしていたりだ。
もし、この幼稚園がなくなり、子どもが家庭に戻ったとして、
一体誰がこの子たちの面倒を見るのか。
軍による園の買い上げ話に頑として首を縦に振らない
正子を説得しようと、入れ替わり立ち替わり人が訪れた。
軍との板挟みになっているその人たちの気もちに
思いが至らない正子ではなかったが、
やはり軍の圧力に屈して、
子どもたちの園を手放すわけにはいかなかった。
ある日、とうとう、海軍の監督官と相対することになった。
気丈な正子も、内心、震えあがった。
そして同時に、静かに覚悟を決めた。
「お話はよく分かりました」と、
面と向かった海軍の監督官に正子は言った。
「ですが、監督官殿も奥さんやお子さんがおありでしょう。
出征しておられる兵隊さん方も同じです。
私たちの幼稚園も出征された方々のお子たちをお預かりしているのです。
家族の方々は疎開すれば働くところがありません。
だから、危険も承知でこの地に残って、
子どもを預けて、働いて、留守を守って、家族を養っておられるのです。
出征兵士の方々が安心してご奉公できるのも、
お母さんが安心して軍需工場などで働けるのも、
幼稚園があるからではありませんか。
私は幼稚園を閉鎖するわけにはまいりません。
園舎を売るわけにはいきません。
お分かりになってください。
軍需工場が戦力であるなら、幼稚園もまた戦力であります」
一心に話す正子の言葉に黙って耳を傾けていた監督官は、
「分かりました」とひと言残して、立ち去った。
戦時の園庭、滑り台で遊ぶ園児たち
『語りつぐ70年〈こどもの園〉』より
1945(昭和20)年3月13日の深夜から14日未明にかけて
大阪は米軍による大空襲を受けた。
市の中心部の13万戸以上が焼失し、死傷者は12万人に及んだ。
この事態に大阪府知事は府下の幼稚園に対して閉鎖命令を出した。
守り抜いてきた園の閉鎖であったが、正子は自分の心の中に
子どもたちの命を守る緊張から解放されたという安堵を見つけた。
3月17日、この園舎での最後となった保育修了式を行い、
翌18日、園を引き払い、正子たち一家も疎開先へと向かった。
保護者たちも園の閉鎖を余儀ないこととして受け入れて
疎開対策に奔走していたようだが、
万が一、うまく行く当てが見つからなかったときのために、
正子は河内(現東大阪市)の鴻池新田の村に
大きな百姓家を丸ごと一軒借りて
一握りずつの米と子どもたちの布団を預かった。
幸いほとんどの園児に疎開先が見つかり、
3人の子どもとそれぞれの両親がそこに身を寄せ、
戦争が終わるまで共に暮らした。
100機以上のB29による大阪大空襲は3月から8月までの間に8度。
立て続けに4度の襲撃を受けた6月、
正子たちの幼稚園があった都島一帯も焼け野原になった。
園舎と園庭の跡にも、疎開せずにいた近所の人たちの遺体があったという。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
? 隔てのない幼稚園に子どもたちが集まる
? 戦渦の中で
? 子どもたちが待っている
? 子どもたちのYAKATA「都島児童館」の誕生
? 揺りかごから墓場まで、町の人を見つめる思い
?継ぎゆく人
? 比嘉正子が撒いた種、福祉の心
? 突然の病院建設担当
ⅺ 保育の道へ
ⅻ 時代のなかで
x? 町づくりの一翼として
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
? 隔てのない幼稚園に子どもたちが集まる
「比嘉正子がこの都島友の会を創設した昭和6(1931)年は、
日本には児童福祉法がなく、
児童施設といえば教育法による幼稚園でした。
その制度の中で正子は、保育所的な幼稚園をつくりました」
そう話す渡久地歌子さんの手には古びた一冊の資料があった。
比嘉正子本人が記した創設10周年記念の記録だ。
その中に、なぜ自分が幼稚園をつくったかの趣旨が書いてあると、
渡久地さんはページを繰った。
「ここに『子どもたちは、どうこうあろうと平等なんだ』と書いてある」
そのころの日本の幼稚園は裕福な家庭の子どもたちが通っていた。
いわば特権としての幼児教育の場であった。
そういった制度、環境のなか、
正子は庶民のための保育所的な幼稚園をつくった。
「その時代時代に働く女性たちはいっぱいいた、お商売をしている人、
本人が勤めている人というのは少なかったかもしれないけれど、
勤めている人の力に女性がなっていたというのはあると思うんですね。
奥様としてじっとしていられる女性の方が少なかったと思うんです」
安心して子どもを預けたいと、必要に駆られる人のための受け皿がない。
「彼女、正子は、志賀支那人先生のひと言から、
公園を園舎にした青空幼稚園をつくりましたが、それについて、
『幼稚園と託児所が一緒になったようなものを私はつくったんだ』と
はっきりと書いています」
この考えは、今の“幼保連携型認定こども園”そのもので、
この幼保連携が都島友の会の原点だと渡久地さんは続けた。
幼保連携型認定こども園は、2016(平成28)年に、
子育て支援として施行された新制度。
都島友の会は法人が運営する施設のうち、
0歳から5歳児までが通う児童施設5つすべてを
2016年から21年の間に幼保連携型認定こども園に移行した。
これについては、また後の話。
1931(昭和6)年、青空幼稚園が北都学園になった当時に戻る。
都島で人望を集める政界人であり、
青空幼稚園の名誉園長である山野平一への陳情が叶い、
広々とした園庭を抱えた園舎が建ち、
名を「北都学園」と改めたところで、
幼稚園令による幼稚園の認可申請を出した。
繰り返すが、当時の幼稚園は富裕層の子どもが通う
いわば特権的な幼児教育の場であった。
家庭でじっとしていられるわけでない母親たちに変わって
子どもを保育し、教育もするという北都学園の形は、
当時の幼稚園令が定める制度のなかになかった。
託児所は貧困家庭の子を無料で預かるところと受けとめられ、
正子のように保育と幼児教育を包含するという考えは一般的ではなかった。
『神学校で培われた私のヒューマニズムの上に、
つねに貧しいもの、弱い者、権力のないもの、庶民の側に立つ』というのが
社会事業の道を選んだ正子の信条だ。
『保育こそ救貧の基盤』という志賀支那人の理念も汲んでいる。
幼児教育は富裕層の特権ではない、一般庶民にも必要である。
家庭がどうこうあれ、子どもたちは平等だ。
それぞれの将来の希望のために、
子どもたちには平等に幼児教育の機会が与えられて然るべきだ。
世の中に例がなくとも、法令の範囲に納まらなくとも、
正子が描く「北都学園」の姿は決まっていた。
「北都学園」第1回修了式。
『語りつぐ60年〈こどもの園〉』より
幼稚園令による幼稚園設立の認可がおりないままに
1932(昭和7)年の早春、
北都学園は第1回の修了児たちを送り出した。
「北都」と白く抜いた五芒星を円で囲んだ
北都学園の記章を染めた幕をバックに、
お揃いの帽子姿で修了証を手に並ぶ子どもたちの記念写真がある。
「託児所であっても見窄らしくてはいけないと、
正子は常々口にしていました」。
取材中の渡久地さんの口から何度となく出た言葉だ。
この1枚の写真から、
託児所は貧困家庭の子を無料で預かる場と受けとめられていた当時、
託児所としての役割も果たす北都学園は、
幼児教育も行うれっきとした幼稚園であるという正子の気概が見える。
第1回修了児を送ったその1932年、役所からの認可を待たず
「北都学園」から「私立都島幼稚園」と改称し、正子は園長となった。
1934(昭和9)年、申請から2年が過ぎてもおりない
幼稚園認可について正子は、顧問の志賀支那人に相談をした。
日本初の公立セツルメント北市民館の館長である志賀支那人から
当時の大阪府会議長への1本の電話の翌日、
昭和9年9月3日付けで認可がおりた。
その時の、府会議長の権威の大きさにびっくりしたことと、
認可を得たことの喜びは忘れられないと、何十年経っても正子は語った。
法的に幼稚園となったが、実際の姿に変わるところはなかった。
0歳から5歳の小学校に上がるまでの子どもたちを
隔てなく預かり、養護と教育を行った。
それについて正子は、私立都島幼稚園の経営理念として記している。
『幼児保育は階級による差別をなくさなければならない。
子どもは皆公平であるべき』
子どもの増加に応じて設備の拡充。
園庭にはジャングルジムや滑り台も。
『語りつぐ80年 つなぎつないで』より
隔てなく子どもを受けいれる都島幼稚園への入園希望は年々増えていった。
1935(昭和10)年には100人以上の園児が通っていた。
幼児保育が大衆にも普及しはじめ、
都島地区には公立幼稚園が1園と託児所が1か所できていたが、
私立都島幼稚園への入園希望者は多かった。
保育室の拡張、運動場の拡張、そしてブランコ、すべり台、
ジャングルジムなど遊具の設置と、園児の増加に合わせて
設備を充実させていくための資金確保も一仕事だった。
国や地方行政の補助などは一切なく、
すべて保育料と保護者の寄付でまかなった。
1938(昭和13)年には園児数は150名となっていた。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
? 将来への一粒の種、青空幼稚園
? 隔てのない幼稚園に子どもたちが集まる
? 戦渦の中で
? 子どもたちが待っている
? 子どもたちのYAKATA「都島児童館」の誕生
? 揺りかごから墓場まで、町の人を見つめる思い
?継ぎゆく人
? 比嘉正子が撒いた種、福祉の心
? 突然の病院建設担当
ⅺ 保育の道へ
ⅻ 時代のなかで
x? 町づくりの一翼として
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
? 将来への一粒の種、青空幼稚園
志賀支那人の「きみ、都島で幼稚園を始めなさい」のひと言から3日目、
比嘉正子は末っ子を背負って都島の地に立っていた。
決めたならば行動、実地調査である。
目の前には田んぼが並び、その後ろには田園の跡地が広がっていた。
生い茂る青草の間を蛙が跳ねている。
木造住宅が点在していて、どこも勤め人の住まいのようだった。
区のちょうど真ん中辺りに、都島小公園。
これは青空園舎に格好の場所と心が躍った。
公園の近所を歩いてみると、5メートルほど先に
間口3間の木造3階建ての貸家があった。
商店向けの造りは住居兼事務所にお誂え向き。
正子は家主が住むその隣家に飛び込み、借りる相談をまとめた。
その夜、勤めから戻った夫に宣言とも言える相談をした。
反対の言葉は無かった、ただ正子の決意を黙って聞いていた。
家を借りる約束をしてきたものの、一銭の貯金も無い。
引っ越し費用と敷金をどうするか。
3人の子どもを取り上げてくれた産婆さんが、
事情を知って用立ててくれた。
銀行員である夫の信用があってのことだが、
よく貸してくれたものだと有り難さは言葉に尽くせなかった。
思いがけない助けを得て、さっそく都島へ引っ越した。
2階の6畳2間を住居に、1階の土間を子どもたちの集会場所にした。
最小限度のピアノ、机、椅子を
フレーベル館から月賦で購入して備えつけた。
後年、都島友の会として発展した後も、
正子は必要な備品は可能な限りフレーベル館から購入し続けた。
さらに正子の計画を耳にした3人の知人が、
保母の奉仕を申し出てきてくれた。
助けてくれる人に恵まれて環境は整った。
残る心配は、肝心の子どもたちをどうするか。
果たして、何も無い所に園児たちが集まるのか。
正子に白羽の矢を立てた志賀支那人が顧問として名を連ねてくれた。
「金を出すことはできないが、私の名はいくら使ってもよい」と、
正子への証だった。
そしてもう1人、市会議員の山野平一が名誉園長になってくれた。
山野平一という人物は市会議長の職も果たし、
衆議院議員として国政にたずさわった後は社会に奉仕した。
地元の都島では、都島の王様と称されるほどの人望を集めていた。
正子を見込んだ両氏の後押しと、広報活動の甲斐あって、
正子の心配をよそに45人の園児が集まった。
志賀支那人から「今日からでも始めなさい」と言われてから間もない、
1931(昭和6)年の3月1日に保育を開始した。
都島公園を園舎にした『青空幼稚園』
『語りつぐ80年 つなぎつないで』より
このとき正子は26歳。27歳の誕生日を迎える4日前であった。
夫と3人の子どもとの平穏な暮らしの中で鎮まっていた社会事業への情熱。
将来の生き方を求めて沖縄から大阪に来て、
アメリカ人宣教師ミス・ミードと出会い育てた理念と情熱。
志賀支那人との出会いによって引き出された理念に血を通わせる行動力。
道を拓く人、比嘉正子が一粒の種を蒔いた。
公園を園舎にした青空幼稚園の入園式は
都島第4小学校の教室1室を借りて執り行った。
名誉園長の山野平一が、久留米絣の羽織袴という
立派ではあるが堅苦しくない洒落た装いで祝辞を述べにきてくれた。
朝9時、集合場所へやってきた子どもたちの点呼をすませると、
正子の3人の子どもも一緒に園舎である都島小公園へ向かった。
木陰で歌ったり、お遊戯したり、紙芝居やお話をするのが日課だった。
玩具の楽器で子ども楽隊もつくった。
公園に飽きたときには楽隊で町を行進した。
ちなみにこの子ども楽隊の演奏を、正子は後年、
プカプカ、ドンドンと表現している。
町を子どもの一団が、プカプカドンドンと練り歩いていたわけだ。
雨の日には、集合場所の土間でピアノで歌ったり
お話を聞かせたりした。
細かなことへの親からのクレームに言葉をのんで謝ることも、
天気に右往左往することもあった。
その時々の出来事に、いちばん適当な策を講じて乗り切った。
トンガリ帽子の子ども楽隊。
『語りつぐ60年〈こどもの園〉』より
子どもたちの楽隊が都島の町を行進していることを気にかけた
名誉園長の山野平一からひと言あった。
「幼い子どもたちを毎日連れ歩いて、
もし怪我でもさせては親御さんに申し訳ない。
名を連ねている私にも責任がある、よくよく気をつけるように」。
預かった子ども45人に自分の子ども3人。
それだけの子どもを4人の保母で連れ歩くのは、
正子自身にとっても神経をすり減らすことであった。
それに夏や冬にはどうするか。
4月5月の後には梅雨が来て夏が来る。
山野平一からのひと言は正子自身の胸の内にあったものだった。
ここぞとばかり、正子は動いた。
保育開始と同時に正子は、沖縄で通っていた日曜学校で
知見のあった「母の会」というものをつくっていた。
志賀支那人の北市民館保育組合の時代から持ち続けている
保育者と母親の間の信頼と友愛が
保育の望ましい環境を整えていくという相互扶助の理念もあった。
正子の隔てをつくらない心は境界を設けることなく
子どもの保育環境を整えていく願いとなり、
園に子どもを預けていない人も広く受け入れた。
機を逃さずと、頼もしい母の会の役員2、3人と一緒に
山野平一を訪ねて陳情した。
そのときの口上を正子はこう記している。
「先生、都島には1つの幼稚園もありません。
北都学園では、4人の先生が誠心誠意、
一生懸命保育しておりますので、
ケガをさせる心配はないと信じております。
しかし、人間には万一という事故が起きることも考えられ、
先生と同じ心配をしております。
どうか、土地と園舎を提供してください。
お家賃は母の会で、責任を持ってお支払いします。
ご迷惑をかけることは夢々思っておりません。
なにとぞ、ご支援ください。
この都島では先生より他に、お願いする方はありません」
比嘉正子と、彼女が頼もしいと信じた母の会の役員が居並んで、
その嘆願の勢いはいかばかりのものだったろうか。
その年の8月には300坪の土地に、
25坪の保育室と事務室、応接室、
一部2階建ての住居10坪が完成した。
青空幼稚園での保育開始から6か月、「北都学園」と名を改めた。
北斗七星の「北」と都島の「都」。
北都の文字を白く抜いた五芒星を円で囲んだ紀章もつくった。
ここでの遊びや学びが子どもたちの将来を
照らすものであってほしいという正子の願いが見えるようだ。
園舎ができあがって園児は80名になった。
保育料はそれまでの1円から2円に値上げ、
母の会の会費は20銭のまま据え置き、
正子たち保母の給料も8円の据え置き。
毎月10円の家賃と10円の所管金を支払うようになり、
安定した保育を続けられるようになった。
なお、国会図書館提供の資料によると、
この昭和6年の小学校教員の初任給が45円から55円だった。
※次回の更新は、5月6日(木)です。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
? 創設者比嘉正子の情熱
? 将来への一粒の種、青空幼稚園
? 隔てのない幼稚園に子どもたちが集まる
? 戦渦の中で
? 子どもたちが待っている
? 子どもたちのYAKATA「都島児童館」の誕生
? 揺りかごから墓場まで、町の人を見つめる思い
?継ぎゆく人
? 比嘉正子が撒いた種、福祉の心
? 突然の病院建設担当
ⅺ 保育の道へ
ⅻ 時代のなかで
x? 町づくりの一翼として
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
? 創設者比嘉正子の情熱
1925(大正14)年4月、正子は、
日本最初の公立セツルメント『大阪市立北市民館』の保育組合の保母になった。
北市民館があった天神橋筋6丁目あたりは、当時、スラム街で、
昼ご飯の弁当を持って来られない子どもたちも多かった。
学生時代に学んだ保育理念の実践の前に、
子どもたちを取り巻く生活環境の改善に心を砕かねばならなかった。
「私たちのやっていること、セツルメント活動の理念は正しい。
それが住民によく理解され、彼らの生活に実際に取り入れられ、
環境が改善されてこそ効果がある」
当時の思いを語る正子の言葉だ。
正しいと信じることを、どう実現していくか。
「私は裸になって飛び込もうと決心した。
頭ではそう思っても、真実、実感が伴うかどうか。
血の通った交流でなければ。
それに相手も、胸襟を開いて飛び込んできてくれなければダメだ。
それは可能なのか不可能なのか」
理想と現実の中で自問自答を続けていたこの時期を、
正子は「神学校で培われた私のヒューマニズムの上に、
つねに貧しいもの、弱い者、権力のないもの、庶民の側に
立つ立場を確立した時期でもある」と振り返っている。
社会事業の道を歩む自分の姿勢を確立したこのころの
正子に大きな影響を与えたのが、
北市民館の館長、志賀支那人だった。
彼は「保育こそ救貧の根幹」と考え、心血を注いでいた。
北市民館のあった地域では両親ともに働く家庭がほとんどで、
家庭の力だけで子どもを育てることは易しくなかった。
志賀支那人はそれぞれの家庭と力を合わせて子どもを育てる
協働保育の必要性を謳った。
そして協働保育の実施のために、
正子のように保育組合で子どもを養育する保育者と
母親との間に友愛の情に基づく相互扶助の関係を築くこと、
親どうしが、親という共通の立場でのみ平等に結ばれて
子どもたちの保育のために協力することを謳った。
この志賀支那人の理念は、
日本の保育事業のパイオニアとして歩み続けた
比嘉正子の中に生き続け、次代へ次代へと繋がれている。
北市民館保育部の郊外保育、2列目右端が比嘉正子さん、その後ろが志賀支那人氏
「語りつぐ80年 つなぎ、つないで」より
1927(昭和2)年の秋、正子は帝国銀行員と結婚し、
翌年、北市民館保育組合を退職した。
温厚で誠実な夫と、3人の子どもに恵まれた。
1931(昭和6)年の早春、志賀支那人から話があると呼ばれた。
4歳と2歳の子どもをお隣さんに預け、
末の乳飲み子を連れて、何ごとかと訪ねると、唐突に
「あなた、都島で幼稚園を始めなさい」と言われた。
志賀支那人が館長を務める北市民館と都島の間には大きな川があり、
そこには木の橋が架かっていた。
当時、都島には幼稚園がひとつもなくて、
その橋を渡って子どもたちは北市民館保育組合に通っていた。
ところが大雨が降ると橋が流れて、子どもたちは足止めをくう。
また夏の暑さ、冬の寒さで、つい足が遠のく子どももいる。
保育こそ救貧の根幹と考える支那人が
手をこまねいていられるはずもなく、正子に白羽の矢が立った。
「きみ、都島区に行って幼稚園を始めないか。
“私が預かってあげましょう”と言って子どもたちを集めればいい。
今日からでも行ってやりなさい」
−−唐突な話に、びっくり、おったまげてしまった。
そのときの驚きについて話す正子の言葉だ。
3人の幼子の育児と家事に明け暮れる毎日。
それにいったい幼稚園を作る資金はどうすればいいのか。
「先生、私にはこのとおり、」と
正子は腕に抱いた子どもを支那人に見せて言った。
「上にもまだ幼い子どもが2人おります。
育児とおさんどんで、毎日てんやわんで暮らしております。
それに、幼稚園を作るようなお金もありません。
先生がお金を出してくださるんですか」
「バカなことを言うな」とひと言、支那人から返ってきた。
「僕だってサラリーマン、お金があるもんか。
金があれば、どんなボンクラでもできるよ。
きみなら金がなくてもやれると見ているが」
すごい見込まれようである。
支那人は続けた。
「子ども3人育てるのも、20人育てるのも一緒だよ。
それに公園がある。
太陽の下、公園の木陰、立派な園舎だ。
木の葉っぱや石ころ、虫、草花。
みんな自然が与えてくださった子どもたちの恩物(おもちゃ)だ。
すべり台やブランコだけが遊び道具じゃない。
それがなければ幼稚園ができないなどと思うな」
すごい言いようではあるが、
支那人本人が保育組合を始める前に露天保育所を開いていた。
橋詰せみ郎という人物が自由教育運動として展開していた
「家なき幼稚園」に影響を受けてのことだった。
家族制度と家屋というふたつの家から子どもたちを放ち、
川沿いの木陰、森や野原で自然と戯れ、
のびのびとした環境で過ごさせる自由教育。
支那人は北市民館保育組合を始めてからも郊外保育を行い、
正子も保母として参加していた。
社会事業の草分けとして信頼を集める志賀支那人の
保育への思いがほとばしる言葉が正子の胸を打った。
結婚し、家庭を守ることに心を向けて
志半ばであきらめていた社会事業の道。
尊敬する志賀支那人からほとばしる情熱が、
正子の内に眠っていたそれを呼び起こした。
「よし、やろう」と決心するまで2日とかからなかった。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
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Person 6 渡久地 歌子さん
安心して生んで老いていける町
? 種蒔く人
? 時々の暮らしに野の花一輪の希望
? 創設者比嘉正子の情熱
? 将来への一粒の種、青空幼稚園
? 隔てのない幼稚園に子どもたちが集まる
? 戦渦の中で
? 子どもたちが待っている
? 子どもたちのYAKATA「都島児童館」の誕生
? 揺りかごから墓場まで、町の人を見つめる思い
?継ぎゆく人
? 比嘉正子が撒いた種、福祉の心
? 突然の病院建設担当
ⅺ 保育の道へ
ⅻ 時代のなかで
x? 町づくりの一翼として
xiv 子どもの自主性が育つ環境を整える
xv 理事長就任、継ぎゆく日々のはじまり
xvi 知識と技術の承継
xvii 地域とともに皆でつくる都島友の会
xviii 可能性を広げる時間
xix 年を重ねて、帰ってくる場所
xx 原点回帰、承継
? 時々の暮らしに野の花一輪の希望
1931年、ひとりの女性が身ひとつで幼稚園を始めた。
26歳の比嘉正子という人だった。
身ひとつというのは喩えでも言葉の綾でもない。
正真正銘自分の身ひとつで、公園を園舎がわりに
45人の子どもたちと幼稚園を始めたのだ。
正子はそれを「青空幼稚園」という伸びやかな名で呼んだ。
1950年、「都島友の会」という名に改め、
今年2021年、青空幼稚園から数えて創設90周年を迎える。
今回お話を伺ったのは、
社会福祉法人「都島友の会」の理事長 渡久地歌子さん。
揺りかごから墓場まで、生活者の日々をより良いものにするという、
比嘉正子本人から受け継いだ志を次代へと繋いでいる。
比嘉正子は戦前戦中戦後と常に地域に根づいて、
人々の生活の質を高めるために力を尽くした人だ。
どうすれば日々の暮らしに明るさ楽しさ美しさが生まれるか。
贅を尽くすという意味ではなく、
その時々の暮らしの中に野の花一輪を挿すように
それぞれの人の暮らしの灯りを守ろうとする。
そんな風に社会事業や福祉に献身した。
渡久地さんの話に、そんな人を想像した。
その比嘉正子という人の話から始めよう。
若き日の比嘉正子さん
「語りつぐ80年 つなぎ、つないで」より
比嘉正子は1905(明治38)年3月5日、
沖縄県首里市の造り酒屋に生まれた。
4人姉妹の末っ子で、
男の子も引きつれて歩くお転婆だったという。
士族の出身の父親は官吏志望の文人で、
造り酒屋を営んではいるものの、
けして商売が得意というわけではなかった。
しかし正子は父をとても尊敬していた。
当時の沖縄は外国への移住者が多く、
村人宛に他国の文字で書かれた手紙が度々届き、
正子の父は村人の求めに応じて
それらの手紙を読んでやっていた。
見返りを求めず、ただ善意で村人のために働く。
そういう父の姿は正子に大きな影響を与えた。
1921 (大正10)年の春、
首里市立女子工芸学校(現・県立首里高校)を卒業。
沖縄県宮古郡西原小学校の代用教員を務めた後、大阪へ発つ。
この大阪行きは正子の人生の大きな岐路となった。
正子を大阪へと導いたのは、
当時通っていた首里パプテスト教会での出会いだった。
この教会の日曜学校の先輩たちが、
ミス・ミードというアメリカ人女性宣教師が
大阪につくった学校に行き、宣教師となって沖縄に戻ってきていた。
当時、正子は進路に迷っていた。
従姉妹たちのようにブラジルやハワイに移住することも考えた。
もし大阪に行くのであれば、
ミス・ミードがつくった女子神学校には寮があり、公費も出るという。
それなら親に負担をかけることもない。
1922年に洗礼を受け、
1923年、大阪十三今里パプテスト女子神学校に入学した。
思春期のやわらかな感性が出会った新たな環境について、
正子は後年、こう述べている。
「『パプテスト女子神学校』は文化的で清々しく、清楚な感じのする学校であった。
私はミッションの経費でまかなわれる留学生として寄宿舎で3年間生活した。
バイブルを勉強の基礎とし、講義や実習は厳しかったが、
校長、教頭をはじめ多くの教授たちは極めてヒューマンで、
日常生活の中に自由と笑いとユーモアがあふれていた。
男子のバイブルクラスもあり、交際も自由、コーラスやテニスもできて、
私の性格にはうってつけの楽しい学園であった。
私の人間形成は、この時期に、この環境でなされたと思う」
大正の「男女七歳にして席を同じゅうせず」という考えが
一般的であった時代に、男女が自由に話をし、
スポーツや音楽を等しく楽しむ。
この環境で養われた正子の考えは、
その後の幼児教育に大きく影響していく。
パプテスト女子神学校時代の比嘉正子さん
「語りつぐ80年 つなぎ、つないで」より
さらに正子の人間形成に大きく寄与したのは、
この環境を整えた校長ミス・ミードその人であった。
宣教師として暮らしたことがある沖縄から来た正子をミス・ミードは側に置いた。
「貧しき子、小遣い稼ぎ、しなさい」とユーモアを交えて正子を呼ぶと、
白髪を抜かせながら、あれこれ話して聞かせた。
彼女は宣教師として、18歳の正子よりも広く日本を経験していた。
正子は、ミス・ミードの白髪を1本1本抜きながら、
英語まじりの片言で話す、ミス・ミードの言葉に耳を傾けた。
授業とはまた異なる寛いだ雰囲気のなかで話を聞くその時間は、
正子にとって学びの喜びに溢れるものであった。
沖縄、日本、アメリカと、異なる環境での女性の在り方をミス・ミードから知った。
それは思春期の正子に強烈な印象となり刻み込まれた。
ミス・ミードは貧困というところに手を差し伸べていく人だった。
その姿もまた正子の胸底深くに打ち込まれた。
「社会的な不平等と貧困がある限り、人間は救われない」
神学校3年生の正子の言葉だ。
幼い日に見た父のヒューマニズムとミス・ミードの慈善。
人が隔てなく暮らす女子神学校での経験。
正子の煩悶は情熱へと変わっていった。
1925(大正14)年、春、パプテスト女子神学校を終了した正子は、
社会事業の道へと進んだ。
取材協力・画像提供:社会福祉法人 都島友の会
参考資料:『語りつぐ60年〈こどもの園〉』社会福祉法人 都島友の会刊行
『かたりつぐ70年』社会福祉法人 都島友の会刊行
『語りつぐ80年 つなぎ、つないで。』社会福祉法人 都島友の会刊行
JUGEMテーマ:社会福祉
]]>開いてみると、写真の束がいくつか入っていた。
そのうちの真白い封筒には、私の名前が書かれてあった。
誰の字だろうと思いながら開くと、懐かしい人たちとの宴席の写真が数枚。
10年ほど前の、知人の出版記念会と2次会のものだった。
出版記念会のご案内をいただくことが立て続いていたこの頃、
祝辞をお送りして、会への出席はご遠慮させていただくことも多かったのだが、
この方の記念会は、ご案内をいただいた日からずっと楽しみにしていた。
集団の中にいても、けして群れているという雰囲気のない方で、
口数は多くなかったけれど、意見ははっきりと仰った。
我勝ちに発言の機会を奪い合うような大人数での会話より、
目と目を合わせての対話を好まれた。
理知的で凛として、頑固さのある方。
その静かさと強さで向かわれる執筆についてのお話を伺うのも楽しかった。
脱稿し、本に刷る段になったとき、
多く刷って、広く配ってはどうかという周囲の声に、
はっきりと、NO、と仰ったときの清々しさも覚えている。
「自分のこの本を読んでいただきたいと思う人にだけ、
お渡しする册数だけがあればいいのです」
これは私自身のことを私自身が決めたのです、という決心が
穏やかな口調に滲んでいた。
それから少し経って、郵便受けに、この本を見つけたときの嬉しさを覚えている。
執筆中のお話を伺う中で、「読んでくださる?」とサラリと仰ったことはあったが、
ほんとうに私が、この本を読んでもらいたい人たち、の中に入っていたのだと
とても嬉しかった。
丹念な取材と深い理解のうえに書かれた内容は、
私自身が知識を理解を養ってはじめて、分かることができるだろうものだったが、
もっと知りたい、考えたいと、新しい窓、新しい扉が目の前に現れたと思う一冊だった。
お祝いを言いたい、お話をしたい。
そう思うと、出版記念会の日が待ち遠しかった。
そこにいる誰の声も耳に届く少人数の会は、
作者を囲んで、とても穏やかで、陽気で、崩れず、うちとけていた。
会の後もしばらく、心地よい余韻が続いていた。
そして、一週間ほど後、訃報が届いた。
突然のことだった。
ご夫君との朝のウォーキングから戻られて、シャワーを浴びて、
突然、倒れて、そのまま逝かれたというのだ。
ご自宅での告別式は、つい先日のことだった出版記念会を思わせた。
本人がここにいたら喜ぶような集まりをと、ご夫君が仰った。
ああ、そうだったなと。
1枚1枚と写真を繰りながら、一気に甦ってきた。
儚い、という言葉を使うことさえできなかったあの日。
この本は形見だね、と仲間たちと言い合った。
書庫の書棚の上の方に納めているあの本を、もう一度読みたくなってきた。
]]>
花が咲いていない時期には桜の木だと気づかずに通り過ぎているのだと、
この季節になるといつも思うことを、また思いながら、
そこかしこに咲き誇る桜の木の下を歩いた。
花びらの色も形もそれぞれの木の下を歩いた。
桜と聞いて思い浮かべる桜の花そのものの薄紅色の花。
こうして見ると、蕾はずいぶんと色濃くて、
花の開くのに連れて薄い色になっていくのだと、
桜の花の時間に触れたり。
蝶が羽を広げるような花びらの開きかけの蕾は
ちょっと星に似ているかなあと、穴のあくほど見つめたり。
手鞠のように丸く集まった白い花の愛らしさに見とれたり。
白い花と緑の黄緑色の顎の清々しさに足を止めて
すこし離れたところから眺めたり。
春の陽光に透ける花びらを近くで見つめたり、
小さな花びら1枚1枚が反射する光にぼうっと包まれる木を遠くから眺めたり。
桜の花にうっとりとして歩いていると、黒々とした枝を突き出す梅の一群。
花盛りには、あんなに群がって写真を撮っていた人で溢れていた梅林が
シーンと閑かに広がっていた。
人って移り気なものねぇと、梅の木の間を歩いていくと、かわいい実がついていた。
わあ、っと。
なんか、すごいオマケをもらったような。
いい日が、もっといい日になったよ、ありがとう、と。
そして桜門を入ると、
白壁を背景に、大きな桜の木。
しばし、うっとり。
桜、桜、桜。
そして、
桜の花に溢れる庭のお濠の柳の若々しい緑にも思わず足を止めて。
春いっぱいの桜日和だったなあ。
]]>
大きな通りを隔てた向こうの桜並木がぼんやりと光っていた。
午後の陽射しを受けた街路樹が霞がかって光っていた。
そろそろ蕾が膨らみはじめたのかなと思った。
昨日の午後 、街路樹の桜が開きはじめていた。
3分咲きというところ。
暖かな日が続けば、あっという間なんだろうなと思って、
あ!と思い出した。
ビル街の一角、四季の花が咲く小さな庭に立つ枝垂れ桜。
根本の水に映る花がゆらゆらと揺れる。
この辺りの桜が咲きはじめたのなら、
きっとあの枝垂れ桜はすいぶんと花開いているだろうと、回り道をした。
すっかり満開だった。
しばらく水の音を聞きながら、
風に揺れる花と、水に揺らぐ花を眺めた後、
すこし早足で道を急いだ。
今年も春をありがとう。
]]>
いつもどおり、地下街への階段に向かう足が止まった。
通りの先に白くけむる街路樹があった。
土曜日の雨で洗われた空の下、ビルは閑かに佇んでいて
樹々の花があたりの空気を染めていた。
時間を刻む予定もない一日だ、
信号を待ちながらの上の道を歩くことにした。
空と花に誘われて道を選ぶ、早春の休日。
とてもとても日曜日だった。
]]>
2月下旬の天気のよい休日に3体のお地蔵さまをたずねて、
ぶじ、7体のお参りを終えたのだった。
◎源正地蔵さま
◎玉河塩屋地蔵さま
◎堤地蔵さま
3回目ともなると、方向音痴なりに勘が働くようになり、
うっかり通り過ぎてしまいそうな細い細い路地も見落とさず。
地図とは様子が変わっている場所にも動じず。
ちょっと調子に乗っちゃって、
ずんずん歩いて、もはやお地蔵さまと関係のない探検になっていたり。
隣の隣町の姿が記憶の中に立体化している。
ななとこまいりで訪ねたほかにも、
まだまだお地蔵さまと明神さまがいらっしゃるそうなので、
この隣の隣町歩きは続くのである。
旅は、距離だけじゃないね。
何かを探したり、見つけたり、ときめいたり。
早春の日差しの中で、
見慣れた街路樹の葉がいつもと違って見えることに心が動いたら、
それもまた旅かもしれない。
]]>
先週の土曜日、2月20日、
大阪城の梅林まで散歩の足を伸ばしました。
毎年、そろそろ見頃かしらなどと思うばかりで
行きそびれていたのだけれど、
今年は逃しませんでした。
青空とお日さまと、梅の木々、花々。
ずっしりとした枝に可憐な花、
控え目なれど匂い立つ、そこはかとない艶やかさ。
種々の花それぞれの表情を楽しみました。
幾重にも重なる花びらで、ころんとした花が集まって
こちらを見ているような白い梅。
離れたところからも目を引く鮮やかな紅い梅。
白い花びらの真ん中に
ほんのり薄い緑色が見える清楚な緑萼という清楚な梅。
一枝に白い花とピンクの花が入り混じった木。自由だ。
その名も「思いのまま」。自由だ。
梅林添いの坂を登って見渡した光景に溜め息がでた。
100種を超える梅が900本近く並んでいるという。
厚手のパーカー1枚で充分なほど暖かな早春の朝に歩いた花の海。
どんな時も、花は咲うね。
人も、わらおう。
]]>
オーガニックシアバター12%配合で、
シリコン、パラペン、エタノール、
合成香料、合成着色料、動物性原料、
石油系界面活性剤を不使用。
低刺激の日焼け止めを探していて出会ったブランドで、
肌質にもあっている。
べたつかず、しっとりツルツルと潤っている感じが持続するので
とても気に入っていた、いや、いる。
にもかかわらず、このボディ用乳液については
リピートせずに別のものに変えた。
理由はパッケージだ。
ポンプタイプの500グラム入りを使っている。
そろそろ無くなりそうなので、オンラインショップを訪ねた。
そこで、である。
詰め替え用のパッケージがないのだ。
定番商品なんだけど詰め替え用パッケージはない。
手元にある、しっかりとしたポンプタイプの容器を眺めて考えた。
プラリサイクルマークはついているけれど、
これから、けっこうな頻度で捨てていくのである。
乾燥の季節なら、ひと月ほどで使ってしまう。
う〜ん。
買い物かごに入れる、のボタンの上にカーソルを置いたままちょっと悩む。
ロングセラーの定番商品とある。
だったら詰め替え用があったっていいんじゃないか。
ブランドコンセプトのなかに
自然環境への配慮や、動物実験をしない考えもある。
とてもやさしい感じがする。
こんなに立派な容器をけっこうな頻度で使い捨てるって、
なんかしっくりこない。
詰め替え用があってもいいんじゃないか。
そして、キャラクターとコラボした限定パッケージがある。
う〜ん、期間限定パッケージがあるのなら、
ロングセラーの詰め替え用パッケージがあってもいいんじゃないか。
買い物かごに入れる、のボタンの上からカーソルをはずす。
ボディローションについては、
このブランドにこだわらなくてもいいんじゃないかと、
他のブランドを探してみた。
不使用成分について似たようなものがあった。
シアバターだって配合だ。
ブランドコンセプトもステキだった。
そして、パッケージについての考え方もステキだった。
先ずシュリンク包装から始めて、次にポンプタイプを製造。
今どき、どの家庭にも何かしら使える容器はあるのではないか、
それを活用してもらえばいいんじゃないか、と考えたのだそう。
いいなあ、と思った。
詰め替え用を試してみようと思った。
それで気に入ったら、次はポンプタイプを購入しよう。
肌に合うといいな。
環境に配慮して、
肌にやさしくて、
安心で安全で、シンプル。
ブランドからのメッセージも似ている。
どちらも魅力的な2つのブランド。
こっちの方がもっと好きと思ったきっかけは、パッケージ。
デザインじゃなくて、パッケージについての考え方、あり方。
パッケージを通して伝わってくるブランドの思考と姿勢。
ブランドのコミュニケーションって、こういうことかも。
********
ブランディングについては、
フランセのWEBサイト内のblog「ブランディングについて」にも書いております。
]]>
裏起毛の厚手のパーカーだけ、ジャケットはなし。
それだけで散歩に出かけた。
普段通りの日曜日の朝に感謝して、散歩に出かけた。
隣の隣町まで「ななとこまいり第二弾」だ。
今日、おまいりしたのは
*目と足の神さま「柳原じぞう」さん
*「延命じぞう」さん
*火除けの「北向火除じぞう」さん
なんとも無病息災への願いが満タンである。
じっさい、そうなのである。
元気で無事にいつもどおりの今日がある。
そのありがたさが身にしみる今日この頃なのである。
去年から、嫌というほど感じている、そして今日なのである。
今日は、道に迷ったのはちょっとだけ。
東西南北、なんじゃそれ、の筋金入りの方向音痴には
上出来の順調なお地蔵さまめぐりであった。
しかも、道に迷ったのは、
地図にあった小さな道が塞がっていたり、
目印のビルが無くなっていたりという、
ちょっとした引っかけ問題っぽい時だけだったのだ。
しかもわりとすぐに気づいたのよ。
自分としては上々上出来なのよ。
でに道に迷ったおかげで、
こんなお家の一部がトンネルのようになった通路を行ったり来たり。
トンネルの天井に「雲」って貼ってあって。
上に住んではいるけれど、ここが空だよと、
頭の上を人が踏んだり歩いたりしていることを帳消しにする心づかいが
有り難かったり。
お地蔵さんの近くのお家の玄関先で寛いでいた猫ちゃんが
行きも帰りも、とってもフレンドリーに寄ってきて、
すりすりすりすり、好き放題撫でさせてくれて、
じゃあね、って立ち去ったあとも、
見守るみたいに、すこし先の路地まで来てくれて。
次のお地蔵さんでは、
お父さんと自転車の練習をしていた
もうすぐ4歳の男の子がスキップでお話しにきてくれて。
幸せな気分で満タンになったのである。
こんな温かで穏やかな気もちになるなんて、
ななとこまいる途中でもう、
おじそうさまのおかげ、をいただいてますよ。
いま、こうやって思い出し書いているあいだに
また幸せな気分になってきた。
もう、次のお地蔵さま巡りが待ち遠しい。
]]>
お地蔵さんを巡るのだ。
去年の暮れ、コロナ禍の感染が広がりはじめて
また外出を控えるようになったころだった。
町のあちらこちらに
総勢11体のお地蔵さんがいらして、
そのなかの7体にお願いをするとよいのだそうな。
古い町並みを歩くだけも楽しいよ、と
ななとこまいりマップを売っている
本屋さんまで教えてもらった。
ほら、あの商店街の本屋さん、と
ジモティどうしらしい会話からして楽しかった。
その楽しさでいく気満々になった。
ちょっとバタバタしていて行きそびれていたのだが、
先週の土曜日にガイドマップを買ってきて、
昨日、日曜日に、最初のお地蔵さんに参って来た。
ななとこまいり、という名のとおり
お願いするお地蔵さんは7体。
うっかり8体にお願いすると、おかげ半減だそう。
欲張るのはよくないということね。
で、土曜日、買ってきたガイドマップをひらいて
手を合わせるお地蔵さんを決めた。
11体、すべて巡るけど、
うっかり、あつかましく、お願いしすぎないように
シールで印もつけた。
どうよ、いく気満々。
楽しみ満杯。
そして、片手にガイドマップ、片手にGoogle mapで
近くの町をGoだ。
日曜日の朝早く、人気のない町をGo to ひっそり キャンペーンだ。
この町に住んでずいぶんになるけれど、
この町にだって、散歩や所用でたびたび足を運んでいたけれど、
昨日歩いた道ははじめてだった。
昔の風情の漂う下町の光景が広がっていた。
細い迷路のような路地に、方向音痴はしっかり迷子になった。
車通りの脇道、短い階段を降りて入る路地の奥にお地蔵さん。
町並みもすてきよという友だちの言葉どおりである。
日曜の朝の静けさ。
陽気に恵まれた2月の風は、冷たすぎず温みすぎず心地よかった。
一番最初にお参りしたのは、出世地蔵というお名前のお地蔵さん。
そういう名前のお地蔵さんがいらっしゃるのだと、はじめて知りましたよ。
とても穏やかなきれいなお顔のお地蔵さんが2体、
小さな祠に並んでいらした。
ほんの近くの町をたずねる半日程度の地元旅。
どんな初めてに出会うのか、とても楽しみ。
]]>
トーストとヨーグルトとカフェオレ。
分量も作る時間もちょうどいい。
常温の水かぬるめの白湯を飲み、
トーストとヨーグルトとカフェオレをとる。
腹八分目から九分目で、体が軽く動く。
トーストにはバターをたっぷり、
とろみのあるプレーンヨーグルトに
バナナときな粉と、リンゴ酢と蜂蜜に漬けたレーズンを。
カフェオレはミルクたっぷり、マグカップに満杯。
テーブルを拭いて、ランチョンマットを敷いて、
食器を出して、台所に立ち、
いただきますと手を合わせるまで15分足らず。
ごちそうさままで30分ほど。
後片付けだって楽チン。
つくる、片付ける、食べる、
すべて引っ括めて、大好物の定番朝ごはんだ。
そして週末やら祝祭日には、
この飽きることのない定番を少しアレンジするのが、
最近の自家流行である。
コロナ禍で引き籠もり生活が始まってからの流行りである。
いや、外出を控える生活がはじまってかれこれ1年続いているから
流行りというよりも、もはや、もう一つの定番か。
先ずはトーストのアレンジ。
バターの上に蜂蜜とシナモンをかける。
バターをピーナッツバターに変える、
ジャムやマーマレードに変える。
バターの上にジャムもいい。
チーズトーストもある。
シンプルにチーズだけもいいし、
蜂蜜とシナモンを足すのもいい。
なんちゃってピザトーストもある。
なんちゃってというか、
ピザトーストっぽいチーズトーストというか。
ピザソースの代わりに
マヨネーズとトマトケチャップを塗って
チリペッパー、オレガノ、バジルなどをふりかける。
で、とろけるチーズをたっぷりのせて
チリペッパーとバジルをさらにふりかける。
ボリュームがほしければハムなどのせる。
軽く焼いた食パンのうえに、
具を直接どんどんのせて、
もう一度チーズがとろとろになるまで焼く。
手間と洗い物はミニマムに。
これは平日の定番どおり。
そしてカフェオレにはシナモンをプラス。
台所から食卓にシナモンの香りがひろがって空気がぐんと変わる。
テーブルを拭いて、ランチョンマットを敷いて
食器を出して、台所に立って、いただきますまで、
平日と5分も違わない。
けど、気分はすごく変わる。
コロナ禍による引き籠もり生活の中で、
ウイークデイとウイークエンドとの違いをつける、
暮らしのなかにメリハリをつけようと始めた
朝ごはんの定番へのちょっとしたアレンジ。
これを、いたく気に入ってしまったのだ。
ほんのちょっとしたこと。
普段どおりの仕草のなかでできることで、
暮らしに変化をつける。
そういうことの楽しさも
新しい定番の味わいなのだ。
]]>
そういうことってある。
もう何年もお会いしていないし、
思い出したり懐かしんだりすることもないのに。
今朝も、そうだった。
部屋を整えていたときに、不意にその方のことが頭をよぎった。
その方への考えが、まったく変わった瞬間の光景と一緒に、
突然、頭の中に浮かんできたのだ。
以前、勤めていたホテルグループの総支配人のお一人。
初対面のときの印象を思い出せない。
その後、仕事をご一緒した際の印象は、
気取らず、親しみやすい方で、
気構えずにお話できる方だった。
ただ、ちょっと、お調子がよくて、
頼りになるんだか、ならないんだかという気もした。
この頼りになるか、ならないんだかという、
それって、リーダーとしてどうよ…なのであった。
憎めないけど、困るんじゃ…なのであった。
その方が総支配人を務めるホテルのスタッフを宥めることもあった。
たいていの場合、その原因はやはり、
憎めないけど、頼りがいがない…なのであった。
まあ、分からんでもない…と宥めるのであった。
飾らずに、有り体に、赤裸々に、包み隠さず、歯に衣着せずに言うと…
それほど尊敬の念を抱くことはなかったのである。
それが、ある日、いやある時を境に変わった。
本社のメンバーと各ホテルの管理職による決算会議でのことだった。
1人の部門責任者を社長が叱責した。
発破をかける…には、ちょっとキツくて長い正真正銘の叱責。
誰もが押し黙るなか、その総支配人が口を開いた。
「あ、いや、社長、それ、私のせいです。
彼がね〜、やりたいということにね〜、
うんと言ってやらなかった。
私がケチで、予算をやらなかった。
叱られるのはね、私ですね。
もうね〜、私がどうも、ケチでいけません」
…と、こんな感じだった。
重くピリピリした雰囲気のなか、
けして、かっこよくない、普段の飾らない感じで
落語家よろしく扇子で手を打ちながら、
そう、社長と部下の間に割って入った。
この出来事が、その方への印象のすべてだ。
それを機に伺っていると、
発破をかける程度の小言ならやり過ごすけれど、
本気の叱責になると、必ず、ご自身が盾になっておられた。
それ以来、そのGMへの愚痴を宥めるときには必ず、
その人柄についてのひと言を添えるようになった。
こんな人だったんだと、いう素敵な裏切り。
What a nice suprise! であった。
どんな風に思い出されるか。
それって大きなことだなあと。
どんな風に思い出す人がいるか。
それも大きなことだなあと。
この出来事が、その方の印象のすべてと言いながら、
思い出スナップを集めれば
やっぱりずっこけた姿に溢れているその人に憧れを感じている。
JUGEMテーマ:エッセイ
日の出は日一日と早くなり春に向かっているのを感じる。
夜明け前の空の暗さの底が浅くなり、
明るんでいく速度がはやくなってきた。
東の空に輝く星の位置も変わり、見える星も変わってきた。
夜明け前のベランダでこんな風に
空の姿を眺めて過ごすようになったのはコロナ禍の影響だ。
今ここに心を置くことを心がけて暮らそうと
強く思うようになったから。
そして、普段の日々をより愛しく思うようになったから。
正月三が日にはおせち料理をいただき、
7日には七草粥、
11日には正月飾りを仕舞って鏡開き、
15日には初めて小豆粥を炊いて小正月を祝った。
小正月を祝って正月を収めるなんて今までしてこなかったけど、
今年は小豆を煮て、粥を炊いた。
日々の食卓で、正月のハレの日からケの日へのケジメがついていく。
そんな感じを味わった。
いろいろと手ばなしているものもあるけれど、
いろいろと得ているものもある。
この普段の日のあり方、
今ここに心を置くことを心がけるあり方を、
ポストコロナが来る日までに身に染みつかせておきたい。
]]>
歩道の人影もほとんど無く、追い抜いていく自転車もなかった。
平日だというのに、ガランドウのビルが並んでいるかのような
しゅんとした空気が通りに漂っていた。
ターミナル駅に繋がる地下街に潜ると疎らな人が押し黙って歩き、
ラジオステーションから流れてくるDJの声も今日は聞こえず、
無音の空間を浮遊しているような気分だった。
メトロや私鉄の改札口が集まるあたりになると
細い小川ほどの人の流れがあった。
街の中心部に進むためにその流れに合流すると
改札の向こう、私鉄の駅からアナウンスが聞こえてた。
国土交通省、厚生労働省から
新型コロナウイルス感染症対策のお願いです…と始まり、
混雑回避やマスク着用、手指消毒などについてのアナウンスが続いた。
無言で人との間隔を保ちながら歩くマスク姿の人たちの中で
そのアナウンスを聞いていると、
ふっと非現実の世界にワープしたような感覚に陥った。
SF映画のワンシーンに入り込んだような感覚。
まさしく非常事態だと…ガラス越しに見えた現実。
4月以来、2度目の緊急事態宣言発出中の街がどんな風に見えたか。
こんなことがあったのよ、こんなだったんだよと
思い出話になる日が、1日も早く来るようにと思いながら、
こんな日のことを記しておこう。
]]>
サプリメントの通販で、テレビやラジオ、新聞などの広告を
見た人からの問合せや購入申し込みの電話応対をするのだそう。
顔を合わせることもない相手に、客だという驕りが加わってか、
「電話機という機械と話している、向こうに人間がいるとは
思われていないのかなって思うことも少なくないですよ」
という溜め息まじりの声も耳に心地よく澄んでいた。
そんなことをこの電話で言われても…と困るケースの一つは
受け付けている商品とは別の、
他の会社や、商品についての文句を聞かされるときだそう。
同意すれば他社の非難になるし、
客の言い分に逆らうこともできないし、
無言を続けるわけにもいかない。
そうですか、と適度な間合いで淡々と言うしかない。
そうですか、に心を込めて、
あら、あなた、分かってくださるの?
あんた、話の分かる人だな、となっては困るし、
そうですか、に無関心が漂うと、
その後の商品のオススメがやりづらい。
どの仕事もそれぞれに、あれこれ難しいものだと思った。
守秘義務がある。
詳しい話を聞かないのがマナーである。
あるが、
そんなことを言われても…のそんなことの一つをポソッと聞いた。
秘密というほどのことではなく、
まあ、井戸端会議でも聞くようなことなのでここに書く。
客「この初回の特別価格のを頼むと、
そのまま後も買わされるんじゃないの?」
ー「そのようなことはございません」
客「ほんとに? しつこく電話とかしてこない?」
―「私どもの方からお電話することはございません」
客「ほんとかしら、はがきとかも送ってこない?
だって、住所とか聞くんでしょ」
―「ご住所は商品をお送りする以外に
使わせていただくことはございませんので」
客「ほんとね、ほんとなのね。
○△□ね、あそこ、しつこいのよ。
お試しキャンペーンで申し込んだら、その後、
何度も電話してくるし、葉書もしょっちゅう送ってくるのよ。
いやだわ、ねえ、ほんとに○△□、いやだわ」
ほんとうに、そんなこと私に言われても、だ。
そりゃあ、しつこく電話がかかってきたり、
DMが送られてきたりすれば辟易するだろうが。
向こうだって商売だ、破格の安値で送料も負担して売れば、
その後、多少のプッシュはしてくるだろう。
キャンペーンの提示価格が低ければ低いほど
そのプッシュの強度は高くもなるだろう。
それは、お安いお試し商品を申し込む前に予想できるだろう。
そんな予想可能な結果を自ら招いておいて、
その果ての、与り知らぬ文句を、
たとえ前もって釘を刺しているにしても、
さんざん聞かされるともいうのも大変だ。
彼女の話を聞きながら、最初そう思い、
それにしても、そんなに文句を言われるほどのしつこさとは
いったいどれくらいのものなのだろうかと、次に思った。
その○△□の具体的な名前は聞かずにおいたけれど、
同じ苦情を口にする人は、けっこういるらしい。
そして○△□は、そこがそこまでするのかと
彼女が驚いたほど名の通ったブランドで、
そのブランド名ならば、
その人たちが何のためらいも心配もなく電話をした気持ちも
分からないでもない…のだそうだ。
多くの企業がヘルスケア事業に乗り出している。
製薬会社、食品メーカー、飲料水メーカー、
化粧品メーカー、精密化学メーカー…。
サプリメントを飲まない私でも、思いつくだけで両手の指を超える。
へえ、ここもかと、様々な分野の大手企業が
サプリメントや機能性表示食品の販売をしている。
健康寿命という言葉も、もう耳に新しくない。
そういや、私の周りでも、
膝の痛みに効くらしいサプリメントを飲んでいる人もいる。
その膝の痛みに効くサプリメント一つをとっても、
どれを選べばいいのか困るほど種類があるらしい。
そこで、ブランドだ。
商品そのものの質や機能の違いで判断ができないとき、
人はブランドに頼る。
このブランドであれば間違いはないだろうと選ぶ。
そして、ヘルスケア事業に乗り出している大手企業はもちろん、
自社のブランド力を存分に使っている。
○△□だって、そうだ。
直接聞いて確かめたわけではないが、ここは断言する。
おそるべしブランドの力。
であるが、果たしてこれはブランディングの観点から見て
どうなのだろうか。
いわば、ブランドの七光りで客を呼ぶ。
七光りキャンペーンで客を呼ぶ。
その後、プッシュする。
実力と自信をそなえた押しの一手で
ついに相手が辟易するまで押してしまう。
ここで、ブランドはどうなるのか、と考えた。
ブランドは資産であるというアーカーの考えに立てば、
それは資産の目減りではないだろうか。
このブランドだから大丈夫と思っていた客の気持ちは、
あそこ嫌いへと変わってしまっている。
以降、そのブランドの他の商品の広告を見たときの反応は
どうなるのだろうか。
サプリメントでの経験による印象とは切り分けて、
もともとのブランドへの好意を感じるものだろうか。
将来への資産であるブランド力の目減り…という一抹の思いも拭えない。
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ブランディングについては、
フランセのWEBサイト内のblog「ブランディングについて」にも書いております。
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壁の額も普段のものになり、家中すっかり「ケの日」の姿。
葉も実も飾り始めと変わらず元気な千両の枝だけ玄関の一輪挿しに。
ケの日の壁もちよっとはんなり。
ケの日もハレの日も愛しんで、機嫌よく。
穏やかで華もある日々に恵まれますように。
JUGEMテーマ:日々の切れ端
1月7日、今日は七草粥をいただく日。
ちょっと気もちが弾むのです。
正月の三が日のあと、普段どおりになった食卓に
ほんのり華やぎがもどってくるような気がするのです。
せり
なずな
すずな
すずしろ
ごぎょう
はこべら
ほとけのざ
何十年といただいてきて、やっと七つの名前が言えるようにもなりました。
すずな、すずしろ、のほかは見分けがつかないままだけど。
今年も、ちゃんといただきました。
コロナ禍の状況が思わしくないなか
穏やかな日々が1日も早く戻ってくることを願い、
健やかに過ごしていけることを願い、
一箸ひと箸、味わいながらいただきました。
そして今年の七草粥にはオマケがありました。
七草を通しての美味しい水との出会いです。
昨日、質のよい七草を揃えているスーパーマーケットに行ったところ
今年は、思っていた以上に立派な七草が待っていました。
思っていたよりお値段も立派で、おおっと一瞬ひるんだのですが、
ころころとしっかり太った菘と清白に、よしっと買い求めて
明日が楽しみだとウキウキしていましたら、
パッケージに「うちぬきの水で育てた」とありました。
「うちぬきの水」ってなんだ?と調べてみましたら、
それは愛媛県の西条市という町の名水で、
名水百選に数えられ、日本一にもなったそうです。
そんなに美味しい水で育った菜なら、おいしいんだろうなと
いよいよいただくのが楽しみに。
はたして、おいしかったです。
シャキッとした食感、
ふわっとほどよく広がる苦み。
毎年いただく七草もおいしいですが、もっとおいしかったです。
鬼を笑かしちゃうけれど
来年もまたこの七草で粥をいただきたいなあと思いました。
で、町が誇る名水で育てた七草ならば…と調べてみると
同じ町のお米屋さんのサイトで「西条の七草」と紹介されていました。
おいしい水で育てた新鮮な七草。
毎年、穏やかで健やかな1年を過ごせるようにといただく七草粥。
コロナの感染拡大が勢いを増すなか、今年の思いは何倍も強いです。
きっと町の人たちが大切にしている水をたっぷりと吸いこんで育った七草。
おいしい七草は、その向こうにある清らかな水も届けてくれました。
こいつぁあ春から縁起がいいや、と。
七草粥が食卓に運んで切れくれた華やぎは、ほんのりどころではなく。
もう一回言っとこう。
こいつぁ春から縁起がいいや。
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あけましておめでとうございます、である。
何はともあれ、ぶじで元気で2021年を迎えた。
霧に包まれた不確かな船出のようではあるが、
新しい年を迎えた清々しい心持ちは毎年と同じだ。
今年も元旦の日の出前、近くの神社に詣でた。
遠出を控えた人もいたのか、
昨年は3人4人くらいだった境内の人影が、
10人近くに増えていた。
ご神前の階段から鳥居に向かって、
こじんまりとした境内で間隔をあけて
マスク姿の人たちが静かに並んでいた。
初詣のあとはリバーサイドの遊歩道で初日の出を待った。
白みゆく空の低くを横断する厚い雲のてっぺんが
ピンクがかったオレンジ色を帯びて、
ガラス張りの高層ビルの壁面が朱赤に輝きはじめた。
ああ、お日さまが昇ってくると心が弾み
明るく健やかな1年を願った。
西の空に月が、東の空に太陽が浮かんでいた。
南北に流れる川の上には澄んだ青空が広がっていた。
行動範囲が限られ、人に会うことも限られた日々の中で
空を仰ぐことが多くなった。
夜明け前の空に星を見つけて喜び、
紺闇の空に広がっていくブルーのグラデーションにうっとりとし、
淡い青へと白んでいく空を飛ぶ鳥の姿を追い、
雲を眺め、真昼の空に目を細め、
夕焼けに息をのみ、残照のなか立ち止まるり、
一番星にときめいて、月の光に鎮まっていく。
桜も藤も近くの名所の花がよく見ぬ間に散っていき
季節がすり抜けていくようであったけど、
そういえば、空の高さ、雲の姿に季節を感じていたなあと振り返る。
今年は、どんな風に季節と暮らしていくのだろうか。
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高齢化について頻繁に耳にしてきたことだ。
もう十数年以上も昔のこと。
90歳を過ぎた殿方がおられた。
若い頃、文士として名を知られ、
当時の、アナーキストや無頼を地でいく暮らしぶりについて
沈黙のご本人をよそに、周りの人たちから聞かされたものだ。
90歳を過ぎたその頃もオシャレで、
食事にはワインを欠かさず、
会食のテーブルに麗しき女性がいれば
いつもより目が力強く輝く方であった。
その殿方が転倒して腰から足にかけて骨折してしまった。
幸いケガは2、3か月で完治したものの
脚力がすっかり衰えてしまい、
自由に歩けるようになるまで長くかかった。
その間に、食べる量も減り、体力が落ち、
何より記憶力や認知力が衰えてしまった。
ずいぶんと馬鹿になったものだ、と
思考力、洞察力の明晰さを失ったことを
歯がゆそうに口にされることもあったが、
こと文学の話になると
同席する若い人も圧倒されるほど
舌鋒するどく意見を述べられていた。
ご自宅から出ることもなくなり
お会いする機会もなくなってしまったが、
近況だけは知らせていただいていた私たちは
その話を耳にして、ずいぶんと胸が痛んだものだった。
今年、1月に始まったコロナ禍。
正体不明の感染症に、高齢の母親は外出を控えた。
早朝の散歩だけはしていたが、人の中を歩くことは控えた。
「足腰が弱ったらどうしよ」と心配しているうちに
あの緊急事態宣言となった。
緊急事態宣言が解除になってホッとしたのも束の間、
殺す気か!?とぼやきたくもなる酷暑であった。
年明け早々からの引き籠もり生活で
体力控えめになった母親が、
あの酷暑の下をマスクをして出歩くのは危険で
どうにもいただけなかった。
それはちょっと無謀である、とんだ冒険野郎である。
そしてやっとこさの秋。
体力の衰えを取り返そうと外に出て歩きはじめた母親、
案の定、脚力が弱っていた。
歩く速度が落ちて、距離ももたない。
えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、であった。
散歩の量を増やすところからはじまり、
繁華街にも出かけるようになった。
イルミネーションが町を飾り始めて間もなく、
日暮れの散策に誘った。
夜道は視界が悪いらしく少し躊躇していたものの、
出てみれば華やいだ街を楽しんでいた。
そしてその夜散歩をきっかけに、驚くほど体力が上がった。
脚力の衰えに伴って、増えていた物忘れもおさまってきた。
すごいものだと感心した。
ここ数年、暗い夜道を歩くのを怖がっていたのだが、
そのイルミネーションを楽しむ散策以来、
日暮れの街を歩くことにも積極的になった。
昔旺盛だった好奇心が戻ってきたようでもある。
ほんの少しのきっかけで、
母親の中に何か大きな変化があったように思う。
11月半ばから感染者が鰻上りに増えはじめ
高齢者の不要不急の外出を控えるようにとの要請が出た。
もちろん、人混みへの外出はしない。
けど、マスクを着けて、
人との距離を適切に保つことを心がけ、
不特定多数の人が触る場所には極力手を触れないようにして
除菌の手ふきシートを持っての外出は続けている。
足腰の弱りは、高齢者にとって命取りだと思う。
生活の質、Quality of life が著しく下がる。
それは生きる力に繋がっていく。
つい2、3日前、懐かしい人にばったり出会った。
母より少し年下の方で、趣味を通じて知り合った女性だ。
海外旅行が好きで、よくお会いしていた20数年前には
体力づくりにと週に数回、1000〜1500メートルを泳いでおられた。
その方も、今、注意を払いながら外出していると仰っていた。
数年前、膝を痛めて歩けない時期があって
記憶力や思考力が如実に衰えていくのを感じたそうだ。
「閉じ篭るというのもね、年寄りには危ないのよ」と仰った。
今も、脚力をつけるために水中ウォーキングを続けておられるという。
その方に2年ほど前にもお会いしたのだが、
ちょうど水中ウォーキングのためにプール通いを再開された時期だった。
そのときは、すこしお老けになったかなと感じたのだが、
2、3日前のこの日は、昔ながらのエネルギッシュな笑顔が戻っていた。
母といい、この女性といい、もと無頼の殿方といい。
足腰の弱りは老化を進める、という話を思った。
ほんの少しのきっかけで、老け込んでも行くし、若返りもする。
JUGEMテーマ:エッセイ
粉もんが好きである。
大阪と言えば「蛸焼き」か「お好み焼き」という
想像力乏しい型にはめられるのは嫌いであるが、
自分の口からは言う。
大阪人である。
粉もんが好きなのである。
大阪人でなくとも粉もん好きの人はおられようが、
それはパンやらパンケーキやらパスタやら、
小麦粉を使った食べ物がお好きなわけであって、
粉もん好きとは似て非なるものである。
”粉もん”という垢抜けない世界に足を踏み入れていないのである。
そうなのよ、私もパンケーキが好きなのよ、などということを
“粉もん”の魅力を抗えない大阪人に向かって言ってほしくはないのである。
粉もん好きを標榜するには、
“粉もん”というコテコテ感たっぷりの垢抜けない香りを
我が体臭として受け入れてから言ってもらいたいのである。
知らんけど。
何しろ、こちとら、子どものころ、祖母ん家に遊びにいって
おやつに”団子汁”を作ってもらったのである。
味噌スープの中に練った小麦粉でつくった団子をいれたものを
おやつに出してもらったのである。
これっておやつ?おやつなのか?と子ども心に思いながらも、
けしてその疑問を口には出さず、
「おいしいか?」と満足げに問う祖母に
「うん、おいしい」と答えた身である。
小腹が空いた時に祖母が食べる間食と、
幼稚園に行く前の子どもが期待するおやつとは、
似てすらいない非なるものである。
しかし、子どもながらに「こんなん、おやつちゃう」とは言えなかった。
気を良くした祖母は、それからもそれからもそれからも
おやつに”団子汁”を作ってくれたのである。
そうして、いつしか「団子汁」の味が忘れられなくなり
いっぱしの”粉もん好き”へと育っていったのである。
こうして、粉もん好きの大阪人ができあがっていくのである。
これが、大阪人、粉もん好きへの道なのである。
知らんけど。
ちなみに、大きくなってから”すいとん”という言葉を知った。
よくよく聞けばそれは "団子汁"ではないか。
そのとき、年頃の娘さんになっていた私は、ケッ!と思ったのであった。
口には出さぬが心の中では、ケッ!である。
”すいとん”だなんて垢抜けた響きはケッ!である。
だって大阪人だもの。
知らんけど。
そしてそんな、ほかの大阪人のことは一切知らない一大阪人の私は、
お好み焼きの「このみちゃん」に夢中なのである。
いや、夢中というのは言い過ぎた。
やや夢中、いや、ややもすれば夢中である。
お好み焼き食べたいなあと思ったら
決まって頭に浮かぶ存在が「このみちゃん」なのである。
容器に、キャベツ、練った粉、山の芋、天かす、ネギ、紅ショウガ、
卵、豚肉、海老、そしてソースにマヨネーズ、青海苔と粉がつおが
入ったお好み焼きセットである。
この紅ショウガが入っているところが、これまた、たまらんのである。
紅ショウガの天ぷらをこよなく愛する大阪人の心を分かっているのである。
容器から弾む心で具材を取り出し、また戻し入れて掻き混ぜる。
大きな容器の中で、空気をふくませるようにサクサクッと
手首のスナップをきかせて掻き混ぜるのである。
そして軽やかに混ざり合った具を熱したフライパンに流し込み、
豚肉と海老をのせて待つ。
押さえたり、動かしたりせず、待つ。
縁の方の粉に生っぽさがなくなってきたら返す。
そしてまた待つ。
豚肉の脂の焼けた匂いがしてきたところで
もう一度ひっくり返す。
ふわふわに焼き上がったお好み焼きに
ソースとマヨネーズ、そして青海苔と粉がつおをかけて出来上がりである。
こんなに手軽で、自分で一から作るより美味しいのだ。
母親世代の料理自慢のご婦人たちから教えてもらって最初に食したとき、
もうこれからは、家でお好み焼きを食べるときは「このみちゃん」と決めた。
キャベツを刻んで、出汁で粉を溶いて、山の芋を磨り下ろして、
ネギと紅ショウガを刻んで、
天かすや、そうそう料理で使わない青海苔や粉がつおを調達してつくる
自家製のお好み焼きより美味しいのだ。
1度に2枚や3枚食べられそうな勢いである。
粉もん、バンザイである。
粉もん食べ過ぎ要注意なれど、やっぱり好きな物は好き。
JUGEMテーマ:おうちごはん
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”How to” をかいつまんで教える本。
頷きながら読んだ。
そう、そう、そうねと言う感じだった。
ところどころ速度を落としながらの斜め読みで、
二百数十ページを2時間足らずで読み終えた。
読後の感想は、
いろいろと確認できて良かったかなと言うくらいのものだった。
実際的なところに学びが多かったし、
安直さに抵抗を感じたところは自分の価値観への鏡になった。
うん、読んで良かったと思った。
そして一夜明けて今朝、歯磨きしていて、あ!と思った。
そうか、繋がるぞ!と思った。
自分が主軸にしている仕事とは多少のジャンル違いの方法論と
自分のやりたいことに接点が見つかったのだ。
ここから考えを広げたり深めたり詰めたりと整えていくのだけれど、
一夜明けてのこのひらめきを大切に育てていこう。
いつもとは違う本棚の前を歩いて見るというのもいいね。
JUGEMテーマ:日々の切れ端
年明け早々にはじまったコロナ禍で
ほんとうに文字どおり
指の隙間からこぼれる砂のごとく消えていった日々を思い、
すこし、いや、だいぶ切ない。
梅、桃、桜、新緑、ミモザ、沈丁花、
木蓮、山吹、藤、薔薇、シャガ、
紫陽花、くちなし、睡蓮、百日紅、
コスモス、キンモクセイ、曼珠沙華…
都会暮らしでも季節を教えてくれる花々の今年の姿を、
いま、鮮やかに思い出せずにいる。
こんな時でも花は咲くねと街路樹の桜を見上げたことも、
マスク越しにとどく甘い香りに足を止めて
沈丁花の姿を探したこともあったけど、
知らぬ間に咲いて散った花の跡を寂しく見ることが多かった。
そんな今年なのだけど、秋の紅葉だけはすこし楽しんだ。
10月の中ごろ、この著しい感染拡大の兆しが見えた頃の滑り込み。
郊外の公園の日本庭園での伸びやかなひと時だった。
その光景は艶やかに胸に残っている。
時を失ったりはしていないよ。
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川沿いの遊歩道、橋を渡り戻りあみだくじを引くように進む。
町の細い路地をジグザグと進み、
民家の軒先の鉢植えや金魚の泳ぐ大鉢に足を止める。
レトロなビルヂングやモダンなビルディングの建築の美を味わう。
どの路を行きたいかでその日の自分の気分を知ったりもする。
今日は日曜日、橋をふたつ渡り隣町の公園へと足を伸ばした。
高層ビルと木造の民家が混じり合う町、
日曜日の朝は人影も車も少なくて閑かだ。
街路樹から落ちた木の実をつつく小鳥の姿を眺めたり、
新しくできた洒落た店屋のエクステリアを見やったり、
気の向くままに足を止めたり進めたり、ゆっくりとした呼吸で歩いた。
公園もまだ人が少なかった。
大型の老犬がベンチに横たわり、
それにつきあう飼い主のもう一方の手を
たぶん若いのだろう小型の犬が引っぱっていた。
どちらの犬も可愛いったらない。
花園の芝生のあいだを流れるせせらぎの真ん中に鳩が三羽、
話し合いでもしているように頭をくっつけ立っていた。
晩秋の朝、水はそうも温んでいないと思うのだが
鳩の足はずいぶんと強いのだなと感心した。
2歳と3歳くらいの男の子がヘルメットを被り
ペダルのないバイクで横を通り過ぎた。
花園を囲む小さな丘の斜面を
その2歳くらいの子どもがバイクに乗ったまま
ぐんぐんを登っていった。
危ないと止める母親と、将来有望だと褒める父親。
両足をあげバランスをとりながら颯爽と進んでいく姿は
たしかに将来有望を物語っていた。
花園を離れて公園の外周に戻れば閑かさが待っていた。
色とりどりの木々の間でひとつふたつ深呼吸をして帰路についた。
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朝日夕日に赤く染まる空も、
星が瞬くミッドナイトブルーの空も、
太陽の光を浴びて真珠のように輝く雲が広がる空も、
棚引く雲が刻々と姿を変える空も、
鈍色の雲に覆われる空も、
雲も星も見当たらぬ青一色の空も、
いくらだって見つめ続けていられる。
空は見飽きない。
こないだの木曜日(11月26日)の夕方5時過ぎ、
根をつめていた作業を終えて散歩に出た。
日の入り後の残照に包まれる光景は格別だし
ひやりとし始めた空気も心地よかった。
道路を擦っていくタイヤの乾いた音にすら味わいを感じた。
残照と風のおかげで気もちがほぐれたところで
気に入りの橋に辿り着いた。
わざと回り道をして渡ることもしばしばの気に入りの橋だ。
橋の真ん中で足を止め、南へと伸びていく川筋へと向き直った。
と、厚く大きな雲が空を縦に二分するように真っすぐ伸び上がっていた。
濃紺と鈍色に分かれた空が川の上に広がっていた。
おおっ、と思わず声が洩れた。
この雲を湿舌と呼ぶのだと知人が教えてくれた。
寒冷前線がそこにあるのだそうだ。
あのときちょうど頭上に気団の前線があったのかと思った。
この雲に出会う前には
東南の空に輝く上弦の月と火星の輝きに足が止まったのだった。
根をつめた作業の後、思い立ってふらりと出た散歩は、
なんともダイナミックな空からの誘いであったようだ。
きっと忘れることのない何でもない一日になった。
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自分の知識や経験、そして想像力を超えての理解はできない。
年月を経て視点が増え、視野が広がり、視座が変化して、
同じひとつ事柄についての理解は変わる。
ああ、そうだったのか、そういうことだったのかと、
あらためて分かることがある。
それについて何も考えていないような
何年も前のできごとについて、
不意に、ああ、そうだったのかと気づくのだ。
今朝も、そうだった。
1日に1フレーズ、マザーテレサの言葉を記した本を読んでいて、
ああ、そういうことだったのかと思ったのだ。
その文章を下に記す。
In Melbourne, I visited an old man nobody seemed to know existed.
I saw his room; it was a terrible state.
I wanted to clean it, but he kept on saying : ‘I'm all right.’
I didn't say a word, yet in the end he allowed me to clean his room.
There was in that room a beautiful lamp, covered for many years with dust.
I asked him : Why do you not light the lamp?
‘For whom?’ he said. ‘No one comes to me.’
I said : Will you light the lamp if a Sister comes to see you?
He said : ‘Yes, if I hear a human voice, I will do it.’
The other day, he sent me word :
‘Tell my friend that the light she has lighted in my life is still burning.’
See what a little act can do?
出典:"THE JOY IN LOVING"
~ A Guide to Daily Living with MOTHER TERESA ~
©Jaya Chaliha and Edward Le Joly
下に記すほどの意味に読んだ。
多少の意訳はあるが、こんなことだと思う。
メルボルンで、誰からも気づかれず
一人ひっそり暮らしているような老人を訪ねました。
彼の部屋はひどい有様でした。
掃除をしたいと思いましたが、
彼は「これでいいのです」と言うばかりでした。
私はもうそれについて黙り、彼とともに過ごしました。
するとやがて、彼の方から私が部屋の掃除をすることを認めました。
部屋には美しいランプが、きっと何年もの間の埃を被ったままでありました。
「どうして、このランプを灯さないのですか?」と訊ねると、
「誰のために?」と彼は言いました「誰も私を訪ねてなどこないのに」。
「もし、私のシスターがあなたに会いにきたら、ランプを灯しますか?」と問うと、
「ええ、人の声が聞こえれば、灯しますよ」と返ってきました。
ある日、彼からの伝言が届きました。
「わたしの友人に伝えてください、
彼女が私の人生に灯した灯りはまだ燃えつづけています、と」。
これが、ささやかな行いによって何ができるかですよ。
世を棄てて、己を棄てた人への、
マザーテレサが説くささやかな行いの中にある愛への、
自分自身の中にある孤独への、
自分の中にどれだけの愛があるのかへの、
胸に浮かぶ様々な思いを見つめていて、あることをふと思い出した。
仕事を通して出会った福祉施設での見聞だ。
そこは知的障害者の入所施設だった。
大きくとった窓からは冬でも陽光が射し込み、
季節ごとに花を咲かせて葉を色づかせる木々に囲まれた
明るく静かな空間。
利用者の大半が高齢の女性ということで
ゆったりと穏やかな空気が流れていた。
そのゆったり穏やかな空気の中にいると
こちらの気もちもゆるりとしていくのが感じられ、
訪ねていくのが楽しかった。
そして、この楽しさの所以は空間だけでなく人にもあった。
訪ねていくと居住者(あえてここでは利用者とは呼ばない)が
とても嬉しそうに迎えてくれるのだ。
食堂の椅子や、居間で寛いでいた人たちが
珍しい顔に気づいて集まってくる。
賑やかな話し声につられて自室で過ごしていた人たちがやってくる。
3人が5人に、5人が10人に、10人が15人に、
あっという間に小さな人だかりができる。
皆さん満面の笑みで、あのね、あのねと話しかけてくれる。
職員の方によると、
皆さん、人が訪ねてくるのが大好きなのだそうだ。
居住者仲間と職員たち、
決まった顔ぶれで過ごしているので
珍しい顔の出現は日常生活に変化をもたらす刺激らしい。
そういうわけで、
地域の方たちなどが施設を訪ねてくることを
職員の方々も歓迎しておられた。
なるほどそうなのか、そういうものなのかと受けとめた。
自分が話す順番を待つ焦れったそうな顔、
自分の部屋に手招きして
大切にしているぬいぐるみを見せてくれる人、
趣味の編み物を見せてくれる人、
なかには箪笥の引き出しをあけて
趣味のダンスの衣装を見せてくれる人もいた。
あの何ともウキウキとした様子を思えば
来客が彼女たちにとってどれほどの楽しみなのかを
想像するのは難しくはなかった。
素直に、そうか、そういうものなのかと受けとめ、
大切なことなのだと理解した。
そして今朝、このマザーテレサの言葉を読んでハッとした。
”ささやかな行いによってできること。”
訪ねてくる人がいるということ。
自分たちに会うために来る人がいるということ。
その嬉しさ。
心に灯る火のあたたかさ。
そのことについて、やっと本当に思いが至った。
ただ会いにきて、とりとめのない話をするだけ。
ただそれだけのささやかな行いが、
どれほどのことであるのかに、やっと思いが至った。
職員の方たちが、施設が地域に開かれた場所であることを目指して
日々、力を尽くしていらっしゃることへの理解がひとつ深まった。
福祉施設の、福祉の分野の仕事に携わって数年が経つ。
このblogに「日々を織る」というルポルタージュも書いている。
自分なりに学び、感じてきたつもりだったが、
こんなシンプルなことがほんとうには分かっていなかったのだ。
理解するということは難しい。
今日、分かったと思ったこのことについて、
またいつか、1年後か3年後か、
ハッと気づくことがあるのかもしれない。
分かった気でいた自分を省みることもあるだろう。
理解するというのは、ほんとうに難しいのだ。
今日、胆に銘じるべきは、
何ごとについても、けして分かった気にならぬようにということだ。
自分は理解したのだと思わぬようにということだ。
どんなことも、きっと、理解できぬままに生きていくのだなと
自分を受けとめるということだ。
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立ち止ることを強いられて生まれた時間、
人はちょっと足跡を振り返ったりする。
そこで、たとえばネジの弛みに気づいたり、
詰め込みすぎた荷物が互いを崩し合ったりしているのを見つけたりする。
日々、進むことばかりに気をとられて見過ごしている
無理や歪みを正す機会だと、
そんな風に説く文章を何度も読んだし、
自分で自分に言い聞かせたことも1度や2度…どころか
10度や20度できかない。
しかしながら、つい忘れる。
忘れて、トラブルで停滞する度に苛立って
予定通りに進めることに躍起になる。
つい先週の金曜日、トラブルに見舞われた。
それまで予定通りに進めてきたことが、
自分ではどうにも解決できない原因で止まってしまった。
なんとか手だてはないものかと
頭痛、胃痛、腰痛と体がもう諦め時じゃないかと
合図を送ってくるまで粘ったけれど、
どうしようもなかった。
で、後はトラブルの元になっている専門に委ねて待つしかない。
1日か2日、予定を組み直した。
で、今、先が見えない。
本当のほんとうに自分以外の手に委ねて
スケジュールについてコントロール不可の状態にある。
もうスケジュールを組み直そうとか
この先、どうやって遅れを取り戻そうとか
そういう考えを一切手放した。
また動き始めたところから考えればいい。
その時のための準備だけを淡々と進めておこう。
そうだ、原稿を書き溜めておこうとか、
自分の中のことだけに考えを向けることにした。
そして自分の原稿を読み返した。
するとどうだろう、その原稿が
どうにも自分が書いたもののように思えなかった。
つい数日前に自分が書いた文章を読んで
何じゃこれ、となったのである。
なんと言うか、小難しいのである。
小難しい文章を前に、私は小難しい顔つきで腕組みをした。
鏡を見たわけではないが、眉間にシワが寄っているのを自覚して
いかんいかん、シワは大敵と眉間をさすったので
きっと小難しいと顔つきという表現に大きな誤りはないだろう。
そうして眉間のシワを伸ばしながら、
なんで、こんな小難しい文章を書いたのかを考えた。
で、はたと気づいた。
自分の文章の軸を自分の外に振ってしまっていたのだ。
他人の地図を見ながら、自分の行き先、
自分の道筋を探していたとも言いえるだろうか。
それでは、自分の文章が書けていなくて当たり前だ。
あたり前田のクラッカーだ。
ああ、また、見たこともなく、食べたこともない
前田のクラッカーのCMのフレーズが条件反射のように出てきてしまった。
もはや半世紀前の幻のCMのフレーズが摺り込まれている。
これはまごうことなき祖母や母の影響である。
一体全体、あの2人はどれくらいの頻度でこの言葉を口にしていたのだろうか。
いや、母はまだ最近もこのフレーズを時々口にしている。
覚えておいてほしいことを忘れるくせに、このフレーズは忘れないのだ。
忘れず使い続けているのだ。
恐るべし、あたり前田のクラッカー。
あ、あたり前田のクラッカーの威力で、わたしもついうっかり、
自分が何を書いていたかという肝心なことを忘れるところであった。
もとい。
自分の地図を手放して自分の文章を書く。
そんなことができるはずがない。
なぜ、そんな無理をしてしまったのだろうか。
わたしは眉間から額へとシワを伸ばす指を進めながら考えた。
そして思い至った。
自分を大きく見せようとか賢く見せようとかいう
邪な心が働いていたのである。
この人物の言うことは、どうも価値がありそうだぞと
誰かに思ってもらいたくて、
ちょっとばかりエエカッコをしたかったのである。
で、専門書からの引用文をいれて文章をむりやり構成したのだ。
いや、専門書からの引用自体は悪くない、
文章の構成を、その引用ありきでしたことが悪いのだ。
たとえば、9cmのピンヒールの靴をもらったとする。
それはそれは美しいフォルムと色の靴である。
果たして自分はその靴を履いて出かけるだろうか。
普段の自分の活動の場へ出向くだろうか。
特別な日の特別な場ではなく、
常日頃の自分として居る場所へ、だ。
まあ、履いていかない。
スニーカーか着地面がしっかりしているローヒールの靴が、
自分自身が求める活動に向いているのを分かっている。
その美しいハイヒールの靴を履くのは、
それにふさわしい機会がきた時だ。
要するに、時と場と機会を誤って履いた靴によって
ちぐはぐな服装で、ぎこちない動きをして
本来自分がしたかったことを何一つできていないのと同じだった。
普段の自分の中にない言葉で、
常日頃の考え、日々を織る中で生まれた思いを
いったいどう表現しようとしていたのか。
自分がしようとしていたことを見れば見るほど
何じゃそれ、である。
平たい文章でいいのである。
そしてその専門書の引用文を
自分の平たい文章のなかに違和感なく置いて、
自分が言おうとすることをより明快に導けるのであれば、
それは借り物の考えではなく正真正銘自分の考えなのだ。
虎の威を借りようとも狐のしっぽはフサフサだ。
狐らしく跳ね、狐らしく鳴く。
そうしかできないし、そうでなければ生きられない。
自分を飾ることにエネルギーを費やして
自分自身に目を向け耳を傾けることを忘れていた。
もしも、この停滞がなければ
自分はあらぬ方へ向かって暴走し、迷路に突入し、
自分の言葉を捨て、考えを見失っていたかもしれない。
自分でスケジュールをコントロールできない状況は
たしかに困ったことではあるのだけれど、
方向違いに突っ走った自分の姿を想像すると
困ったどころではない。
停滞するというのも悪いばかりではない。
この言葉を噛みしめて
停滞の賜物に感謝しきりである。
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