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ぱんせどフランセ

思いつくまま、たまに仕事のことなども。

福祉の現場に生きる人たちへのインタビューをもとに書いた
ルポルタージュ「日々を織る」も連載しています。

ブランディングについての記事は、フランセのWebに書き始めました。
<< <コラム> 気づくということ | 日々を織る。 | main | 散歩のおまけ、茄子、瓜、レモン、西瓜。 >>
<コラム>高齢を生きるということ|日々を織る。
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    ☆「日々を織る」 福祉の現場に生きる人たちのルポルタージュ ☆

     

     

     

    <コラム> 高齢を生きるということ

     

     

    高齢化する親とどう生きていくか。

     

    一足先に親の介護を始めている友人や知人の姿に、

    いつかは自分も通る道なんだろうなと

    そのことについて考える時には、

    高齢化する親と生きるということは、すなわち

    自分の生活がどんな風に変わるのかについてだった。

    高齢になった親の生活よりも、

    それによって影響を受ける自分の生活のことを思っていた。

    肝心の親本人が高齢をどう生きていくかということを

    見ていなかったのだ。

     

    福祉の現場で働く福祉の専門家と話す中で

    さんざん耳にしてきた「本人からはじまる」という言葉が

    いざ自分の普段の生活への不安になった時、

    すっかり考えの中から抜け落ちていたというわけだ。

     

    そのことに気づき、また、

    親本人がどう生きるかを考えることと切り離して

    自分の生活の変化について考えることはできないものだと

    気づく出来事があった。

     

    先週のコラムにも書いたが、昨年の暮れ、母が体調を崩した。

    ERに駆け込み、その場で入院。

    数日経過を診た結果、手術となった。

    高齢化する親と生きていくということが

    生々しい現実となって自分の日常生活を覆う出来事だった。

     

    年齢的なことも考えて可能な限り

    開腹手術はしないでおこうと、

    内科と外科の先生方が診察と検査、話し合いを

    重ねてくださって数日後、

    やはり手術をする方がよいという診断を受けた。

     

    入院当日から手術の可能性を告げられ、

    最終的な診断の前にも手術をした場合と

    しなかった場合それぞれの今後の状況についての

    説明も受けていた。

    年齢に加えて体力が衰えた状態での手術で

    負担はあることは分かっていた。

    けど、身体をチューブに覆われて

    検査や処置のたびにぐったりとする様子に、

    この小康状態で治療に時間をかけることもまた、

    本人にとっては楽ではない選択なんだろうなと

    素人ながらに感じていた。

     

    いまの症状が治まったとして、

    この先、再発するたびに今回と同じような

    辛さを繰り返していくのだろうな。

    食事や行動に制限がかかるのだろうな。

    また、いつあんな風になるのか分からないと

    不安を抱えて暮らしていくことになるのだろうな。

    そんな風に先々の母の暮らしぶりを想像すると、

    どちらを選んでもリスクはあって、

    どちらを選んでも辛抱が必要なのは明らかだった。

     

    そして、もう一つ。

    病院のベッドで過ごす時間が長引けば、

    足腰はもちろん手指にいたるまで筋力が衰えて

    自立した生活に支障がでるだろうことも

    素人ながら容易に想像できた。

     

    リスクのない選択肢がないのなら、

    日々の暮らしを楽しんでいる母の姿を

    より想像できる方がよかった。

    今までどおり、おいしいねと何でもよく食べて、

    行きたいところに自力で出かけて、

    ささやかであっても自分の気もちにそった楽しみ方をしている

    日々の姿が想像できる方がよかった。

    手術を選択肢として考えておくように

    医師から説明を受けた時、そう思った。

     

    退院後の母の毎日の生活。

    これからの母の人生について考える。

    突然はじまった介護する生活の中で考えた

    高齢化する親と生きていくということは、

    そういうことだった。

     

    本人がどう高齢を生きていくか。

    家族として、それとどう関わっていくか。

     

    母本人も手術を希望し、

    退院後の生活に向けて積極的だった。

    手術後は車椅子の出番は無かった。

    1日でも早く自分の足で歩きたいという

    本人の気もちを聞き入れて、

    手術翌日から看護師さんが付き添って、歩行器も使わず

    病室フロアの廊下を歩かせてくださった。

    転倒しないように付き添っているからと、

    院内のあちらこちらの検査室へも

    自分の足で歩いて行かせてくださった。

    時間がかかってお世話をかけるけど歩きたいという母に、

    気長に付き合ってくださった。

     

    車椅子も歩行器もなしで

    たとえ1日に数百メートルでも歩いていたおかげで、

    自宅に戻ってからのリハビリが驚くほど捗った。

    日一日と距離が伸び、スロープや階段を上り下りする

    足取りが力強くなっていった。

    その目に見えての変化が本人のやる気を刺激して、

    こちらががんばり過ぎに気をつけるほどだった。

     

    母のリハビリをしていた時期、

    2か月あまりの入院中、ベッドの上か車椅子で

    過ごしていたことをきっかけに、

    退院後も車椅子を使うようになった方の話を聞いた。

    足腰は丈夫で一人で外出もしていたのに、

    今も転倒防止に車椅子を使わないといけないのと

    残念そうに話してらっしゃった。

    病状や状況によって看護の形は様々だろうが、

    ご本人やご家族の気持ちを考えると切なかった。

     

    本人の選択肢を広げる。

    本人の可能性を消さない。

    本人ができることを増やしていく。

    それはすべて本人から始まる。

     

    この「日々を織る」の取材執筆を通して

    そして会議や食事会などの場で耳にしてきた言葉を思った。

    高齢化する親と生きていくということは、

    親本人が高齢をどう生きていくかを

    まず本人を主体において考えることだと実感した。

     

    恵まれたことに、

    手術後の回復は先生方や看護師さんたちが驚かれるほど

    順調で早かった。

    そんなわけで、長期間、介護生活を続けている

    友人や知人の大変さは想像を超える。

    介護する日常生活の大変さをほんとうには

    分かっていないだろうとも思う。

    けど、高齢化する親と生きていくということは

    親本人が高齢をどう生きていくかの伴走者になることだと、

    それだけは学んだ。

    そして、その伴奏の仕方はやはり、

    福祉の現場で様々な人の日々の暮らしの伴走者として

    知識と経験を積み重ねている

    福祉の専門家たちにならうことが多い。

    自分の経験の後、あらためて思うことは、

    福祉の現場は施設の中だけにあるのではなく、

    私たちが普段暮らしている日常生活の場にも

    その根をおろしているということだ。

     

    高齢化する親と生きていく。

    自分自身が高齢を生きていく。

    それが体温を持った自分ごととなった今、

    一人ひとり、一つひとつの家族が、

    それぞれの福祉を行っていくのだとそう思う。

     

     

                                            筆者 井上昌子(フランセ)

     

     

                次回「安心して生んで老いていける町」へ 

     

     

     

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