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ぱんせどフランセ

思いつくまま、たまに仕事のことなども。

福祉の現場に生きる人たちへのインタビューをもとに書いた
ルポルタージュ「日々を織る」も連載しています。
すらすらとうまく書く?
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    文章を書く仕事をしていると、

    どうすればうまく書けますかねとか、

    どうすればすらすら書けるでしょうかねとか、

    そういう言葉を投げかけられることがある。

     

    どうすればうまく書けるか、

    しかもすらすらと書けるとか。

    そういう文章を手玉にとるコツや秘訣があるのなら、

    こちらの方が教えてもらいたいというのが

    正直なところで、いつも返事に窮する。

     

    ほんとうに、そんなにすらすらと、

    うまく書いたという覚えが…

    記憶をたどって出てこないのだ。

    のってきたとか、筆が進むということはあっても、

    それはやっぱり、すらすらとうまく書くのとは

    ちょっと違う。

     

    何となく、小さな種のようなものが

    頭のというか、心の中にポンと落ちてくる。

    その、ポンという音になるかならないかの、

    クシャミや咳の勢いに紛れて消えそうなほどの振動を

    キャッチできた時には、

    お、なんかこれ文章に出来るかな、と考える。

     

    お、なんかこれ、文章に出来るかな、というのは、

    考えとして姿にできるかな、ということだ。

    何かしら、自分なりの気持ちや思いや考えを、

    見つけたり育てたりできるかな、ということだ。

     

    混沌とした、言葉にならないまま

    心のあちらや、頭のこちらに散らかしている

    何か考えのようなものの姿をつかまえる。

     

    膨らませたり、削ったり。

    飾ってみたり、刈り込んだり。

     

    取るに足りない考えであったとしても、

    今、自分はこんなことを思っているのだなあと、

    正直だと思える自分の言葉を探す。

     

    そういうことを、

    うまく、すらすらとやってのける術を私は知らない。

     

    もしも、誰かが教えてくれると言ったら

    なんてラッキーなんだと、

    なんてラッキーなんだと?

    なんてラッキーなんだと、

    果たして、喜ぶだろうか、喜ぶのだろうか?

     

    たしかに、

    この人の文章が好きだというのはあって、

    学びたい、学ぼうというのはあるけれど。

    それは、

    その人の足跡をなぞりながら

    自分の景色を見つけていこうとする道程の気がする。

     

    だからきっと、そのコツや秘訣を教えてもらう、

    答をもらうという事ではない、と。

    そんな風に思う。

     

    影響を受けて、影響を受けて、

    自分の毎日の生活の中で育った感性と、

    生活から切り離したところに保った感性と、

    そういうものが

    とつとつと言葉と出会っていく。

    そして、自分なりの

    文章という姿になっていく。

    そういう事ではないかと思う。

     

    そして、たぶんきっと、文章に限らず、

    世の中のほとんどのことは、

    心や頭のなかに、ポンッと落ちてきた

    小さな種を、

    音や色や体の動きや味やと、様々な姿に表したもので、

    たいていは、

    すらすらとうまくやる魔法で

    できあがってはいないんだろうなあと。

     

    春めいて、なんとなく気分が弾むこの季節に

    苦手の最たるものである書類仕事に

    ウンウンと唸りつづけていたものだから、

    からかしら、からなのかしら。

     

    その苦手仕事の合間に、

    ふと浮かんできた言葉を書き留めた

    積んであるメモ書きを眺めながら、

    これ、どうやったら、書けるかなあと考えているうちに、

    こんな思いが先走り、

    なんか、ちょっと、自分らしくもないことを

    書いてしまったような。

     

     

    JUGEMテーマ:エッセイ

    | 言葉の話 | 07:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
    文字の外の言葉
    0

       

      言葉を、表現の頼みにする仕事をしています。

       

      広告のコピーを作ることもありますし、

      パンフレットなどのコピーを作ることもあります。

      インタビュー記事を書くこともありますし、

      フィクションやノンフィクションの

      物語を書くこともあります。

       

      ビジュアルや音楽とのコラボレーションで、

      漫画の原作を書くこともありますし、

      動画のシナリオを書くこともあります。

       

      ブランド・ブックを作ることもあります。

      これは、商品やサービスのマーケティング戦略の一環として、

      市場に向けてのコミュニケーションのための

      ルールブックのようなもので。

      上にあげたコンテンツのように、直接、

      市場のお客さまに語りかけるわけではありませんが、

      どのような言葉で、

      お客さまとのコミュニケーションをはかっていくかの

      教科書や参考書のようなもので、

      やはり、言葉をつくっていく仕事です。

       

      言葉。

      文字で表すもの。

      そして、時に、ビジュアルも。

       

      写真、イラスト。

      空白やレイアウトといったグラフィック表現、

      文字の形や組み方。

      色使い。

      そういうビジュアル要素も、

      言葉を考えていく中で、以外と意識しています。

       

      言葉という際限なくイメージを広げていくものに、

      具体的なビジョンを与えてくれるビジュアル要素。

      文脈の筋をくっきりと浮き上がらせてくれるビジュアル要素。

      そういったビジュアルの力を、

      広い意味で、言葉の一つとして考えている、と。

       

      たとえば、記事の中で、

      言葉で語れば饒舌が過ぎると思う時、

      1枚の写真に情報伝達の多くをまかせる。

      言葉を選びながら、

      ああ、こういうビジュアルが欲しいなと考える。

       

      たとえば、とても美しい写真がある時、

      その邪魔をしないように

      削ぎ落とした言葉で、

      イメージを広げたり深めたりすることだけに尽くす。

       

      たとえば、広告やポスター制作で

      デザイナーさんとビジュアル表現についての

      打合せをしながらコピー制作を進めていく時。

      どんな写真を使うか、どんな色使いにするのか、

      文字は縦書きに置くのか、横書きに置くのか。

      その内容によって、選ぶ言葉、使う言葉を変える。

       

      もちろん、こちらの言葉で、

      ビジュアル表現も変わります。

      デザイナーさんの腕とセンス一つで、

      言葉の力がグンと増している時は、とても嬉しい。

      一つの世界観を共有し、表現をしているという感覚が、

      書くという仕事の孤独さに、

      なんていうか、陽気な音楽を与えてくれます。

       

      ビジュアル的に、といえば。

      ひらがな、カタカナ、漢字のバランス。

      読みやすさ、という理由だけからではなく、

      字面というか、

      紙なら特に、印刷された時の表情をイメージしながら

      ひらがな、カタカナ、漢字のバランスを考えたりと、

      視覚的な印象が、言葉の意味するところ、

      伝えたい、伝わってほしいと思うことに

      どんな風に作用するかも考えたりしているのです。

       

      と。

       

      こないだ、大阪には珍しい雪の中を歩きながら、

      言葉を表現の頼みにしているというのは、

      以外と、言葉の他の表現も探っているんだよなあと、

      文字の外にある言葉について、

      そんなことを思ったのであります。

       

       

       

       

       

      JUGEMテーマ:エッセイ

      | 言葉の話 | 07:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
      安心という言葉の大変さ
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        このブログに連載中のルポルタージュ「日々を織る」

        先週の木曜日に更新した

        「囲いを打ち破る。Vol.6 保護者の胸の内」をきっかけに、

        「安心してもらう」という言葉について、あらためて考えた。

         

        授産施設で働く障害者の親御さんの、

        言葉の出ないお子さんが

        自分の目が離れた後も、

        施設できちんとケアを受けているかどうか

        心配する気持ちを、

        施設側がしっかりと受け容れ、

        安心していただけるよう心と力を尽くす。

        日々の支援の中でその姿勢を示すことで

        安心をしていただけるまでの

        信頼を勝ち得るしかない。

         

        言葉にすれば、ごく当たり前のことですが、

        その当たり前のことの

        なんと難しく大変なことかと考えながら

        そのエピソードについて書いていて、

        ふと思い出したことがありました。

         

        以前、マーケティング部に所属していたホテルで、

        料理長やシェフからたびたび聞かされた

        お客さまに安心していただけるように、という言葉。

         

        それは、お客さまへのアピールに、

        何か目立ったことが必要だと

        インタビューするこちらに対して、

        食材へのこだわりや、

        腕の素晴らしさや、

        センスの良さの前に、

        まず、安心していただけるための心配りを

        訴える料理人の心でした。

         

        たとえば、

        下ごしらえをした食材の保存の際に

        きちんと密封することが大事であるのに、

        慌ただしいキッチンでついうっかり

        ボウルをフタするラップの仕方が甘かったら、

        それはもう

        保管のクオリティが下がったことを意味している。

        ほんの些細なこと、その些細なことが、

        安心のクオリティを下げることに繋がっている。

         

        昨日からキッチンにはいったアルバイトスタッフにも

        その些細なことへの心配りを徹底させることの難しさ。

        それは、ある意味、

        熟練のシェフが食材を吟味し、

        腕をふるった一皿をつくることよりも難しいかもしれない。

        その難しさについて料理人たちは話してらしたのだと。

        今になって、あの時よりも深く分かった気がします。

         

        安心してもらう、という

        ともすれば、何気なく使いがちな

        この言葉の意味するところの大変さを

        つくづくと考え、

        血の通った言葉を書くということの

        難しさを教えられました。

         

         

         

        JUGEMテーマ:エッセイ

         

        | 言葉の話 | 07:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
        ああ、そうだ、霜月、だった。
        0

           

          11月1日。

           

          昨夜、就寝前に、カレンダーをめくりながら、

          早いなあ、もう11月かあ、

          そういえば11月ってなんて和名で言うんだっけ?

           

          長月?

          ん?

          それは9月。

          神無月と師走の間、あれ、なんだっけ?と

          考えても考えても出てこない自分に、

          ちょっと呆然とした。

           

          で、1年の最初から書いてみたら

           

          1月、正月…じゃないよなあ…

          2月、如月

          3月、弥生

          4月、卯月

          5月、五月

          6月、水無月

          7月、あれ?

          8月、なんだっけ?

          9月、長月

          10月、神無月

          11月、わからん  

          12月、師走

           

          …と、こんな体たらく。

          ちょっと、悲しかった。

          いくらか、落ち込みました、自分にがっかりしました。

           

          睦月、如月、弥生、卯月、五月、水無月、

          文月、葉月、長月、神無月、霜月、師走。

           

          こんなに、文字としても、音としても

          美しい呼び名を覚えていないだなんて。

          もったいないじゃないのと。

           

          月を順番で呼ぶのではなく、

          花鳥風月のなかに自分を置いて

          太陽を拝み、月を仰ぐような謙虚さを

          胸のどこかに一欠片置いたように

          その月々の姿を思い、その名を呼ぶ。

           

          そんな心を、どこかに置き忘れていたような気がして

          ちょっと落ち込みました。

           

          言葉を置き去りにするのは、心を置き去りにすること。

           

          これから、慌ただしくなる時期に、

          コツンとひとつ、

          自分に小さなゲンコツをくれてやりました。

           

           

          JUGEMテーマ:日々の切れ端

          | 言葉の話 | 08:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
          Liberalとリベラル
          0

             

            リベラル

             

            ここのところ、この言葉

            よく耳にしたり、目にしたりするのだけど、

            なんかちょっと違う。

             

            その、自分がいままで使ってきた

            リベラルという言葉の感覚と違うのだ。

             

            Liberal/自由な、開放的な、偏見のない、寛大な

             

            この、Liveralという言葉が持つ

            伸びやかで明るく、人を楽にするイメージが

             

            とても、窮屈で、人を閉じ込める概念に

            縛り付けられてしまった。

             

            そんな気がして仕方がない。

             

            Liberal が片仮名のリベラルになったところで

            まったく違う意味になってしまったのだろうか。

             

            何かにしがみつく心に、Liveralという言葉は似合わない。

             

            誰かが、他の誰か達がつくった概念に縛り付けられて

            自分の意思や選択の機会を奪われることを良しとしない。

             

            Liberalという言葉に描いてきたものは

            人の、そういう心のあり方だった。

             

            言葉の使われ方に違和感を感じる。

            言葉が歪められていくような切なさを感じる。

             

            それは、何か、

            その言葉に照らされる心のあり方を失うような

            大きな喪失感を感じるのだ。

             

             

            JUGEMテーマ:コトノハ

             

            | 言葉の話 | 08:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
            言葉ひとつ分の自由
            0

               

              Expat

              母国を離れて暮らす人。

               

              この言葉を知ってから

              日本で暮らす外国籍の人に対して

              Foreignerという言葉を使わなくなった。

               

              日本で暮らしている

              日本人でない人という意味では

              どちらも同じなんだろうけど。

               

              感じるものが違う。

               

              Foreignerというのは

              うーん、

              日本か他国か、国籍がどこか、とか

              制度やシステムっていうハードを

              ベースにした表現。

               

              Expatというのは

              どこで暮らすのか

              今、どこを自分の居場所にするのか

              自分はどこで生きていくのか

              本人個人の意思というソフトを

              ベースにした表現。

               

              そんな違いを感じるのだ。

               

              で、個人の生き方をベースにした表現の方が

              なんとなく自分にしっくりくるのだ。

               

              誰かについて語る時、

              その人自身の人生というか物語というかに

              寄り添うような眼差し。

              そんな感じが、いいなあと思う。

               

              なんか、自由な感じある。

               

              風にそよぐカーテン越しに

              やわらかな日差しがさしこむ

              大きな窓が開いているような

              開放感がある、

              そんな自由を感じるのだ。

               

               

              JUGEMテーマ:エッセイ

              | 言葉の話 | 07:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
              似合う言葉
              0

                 

                欣喜雀躍。

                 

                嬉しさのあまり

                体が勝手に踊りだしちゃうぜとばかり、

                小躍りして喜ぶこと。

                 

                昔、昔、若かりしある日、

                指導の厳しさのあまり若い芽を萎びさせると

                一部の間で恐れられていた

                知り合いの編集者から聞いた四文字熟語。

                 

                場所は、洋酒とワインの上手い店、

                仕事も終わって

                ワインの2、3杯もあけた頃であった。

                「キンキ、ジャク、ジャクヤ、ク?」とワタシは

                出来損ないのおうむ返しに問い返した。

                 

                きっとその様子はアホ丸出しであっただろう。

                 

                いや、あっただろうの、だろうは不要だろう。

                おっと、不要だろうの、だろうは無用の長物だろう。

                それこそ、無用の長物だろうの、だろうは月夜に提灯だろう。

                疑いなく、月夜に提灯だろうの、だろうは…

                え〜〜い、もういい、くどい、しつこい、脂っこい。

                いや、脂っこくはない、ここはむしろ、粘っこいだろう。

                だから、粘っこいだろうの、だろうは…。

                 

                だろう、だろうは、もう充分、飽き飽き、辟易…

                ほんとうに、やめんかいと、

                心の声が耳鳴り、雷、海鳴りほどに響いてきたから

                脂っこい、もとい、粘っこいのは、ほんとにお開き。

                 

                しつこくして、ごめんなさい。

                 

                ワタシの出来損ないのおうむ返しに、

                その編集者は、

                キミ、アホ丸出しやで、と声には出さずとも

                太文字で書いたような呆れ顔で、

                抑揚なく、こう言った。

                 

                「狂喜乱舞の類義語です。

                 欣喜雀躍の方が、品や知性を感じませんか」

                 

                たしかに。

                 

                思慮深い気がした。

                浮かれ騒いでいるのじゃなくて、

                静かに、でも隠しきれない喜びが

                全身から洩れ出ている風情を

                表現しているという感じ。

                開けっぴろげに、喜び騒いでる様を思わせる

                狂喜乱舞とは、ひと味違うと思った。

                 

                確かにそうなんだけど、あの頃、

                せっかく知った”欣喜雀躍”、使えなかったなあ。

                だって、20代の女子の原稿の中に

                欣喜雀躍って、なかなか馴染まなかったんだもの。

                書く内容にも、文体にも。

                品や知性の問題とは別に。

                たとえば、品と知性をテーマに装うとして

                やはり、20代、30代、40代、50代の女性は

                それぞれに、似合う服飾が異なるように。

                 

                たしかに、言葉の選び方で

                人や人柄を表したり、築いたりしていけますが、

                言葉の方からも、

                その言葉に似合う人や人柄を選ばれているのかも

                しれないん、だろう、な。

                 

                 

                 

                JUGEMテーマ:コトノハ

                 

                | 言葉の話 | 07:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
                恩送り|言葉がくれたもの
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                  恩送り。

                   

                  この言葉を知ったのは20代のころ。

                  井上ひさしさんのエッセイでだった。

                   

                  仕事やプライベートの勉強ごとで

                  ほんとうにいろんな人のお世話になって、

                  こんなにしていただいてばかりでいいのだろうかと

                  戸惑っていた心に、ポンと飛び込んできた。

                   

                  恩返し、ではなく、恩送り。

                   

                  誰かに受けた恩を、誰かに送る。

                   

                  お世話になった方に直接お返しすることはできなくても

                  他の誰かに送ることで、ちゃんと恩に報いることになる。

                   

                  この言葉に出会って、すごく心が軽くなった。

                   

                  お返しに気を取られているよりも

                  もっと先の、もっと広いところへ目を向けて

                  小さな自分にできることを精一杯続けるだけでいい。

                  その精一杯が、なんと広がりをもっていることか。

                   

                  オンオクリ。

                   

                  たった5文字ののこの言葉が

                  与えてくれたもののなんと大きなことか。

                   

                  言葉の力は人を裏切らない。

                   

                   

                   

                  JUGEMテーマ:コトノハ

                   

                  | 言葉の話 | 07:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  8月15日、祖母からの言葉を思う。
                  0

                     

                    8月15日、終戦記念日。

                     

                    この“終戦記念日”という言葉が

                    メディアから聞こえてくるたび、

                    祖母は「終戦やない、敗戦や」と言った。

                     

                    敗れたということを棚にあげた

                    終戦という言葉が、

                    祖母にはどうにも、

                    糖衣を被せたきれいごとのように思えたらしい。

                     

                    集団疎開に出していた幼い我が子を

                    戦争孤児にするのなら

                    一緒に死んだ方がいいと

                    夜汽車に乗って大阪から島根まで

                    単身迎えに行き

                     

                    空襲警報が鳴り響くたびに

                    電灯を消した暗闇の中

                    子どもを抱きかかえ、

                    防空壕のなかで蒸し焼きになるか

                    ここでドンと一思いに死ぬのかという

                    選択に怯える心で直面しながら

                     

                    庶民の台所から鍋釜を集めて

                    鉄砲の弾を作らなければならない国が

                    どうしてこの大きな戦争に勝てるのか

                     

                    昨日まで魚や野菜や米、味噌醤油を売っていた

                    50代の男に鉄砲持たせて戦地に送るという

                    日々の暮らしの中で目の当たりにする現実は、

                    新聞で知らされる戦況とはあまりに違う

                     

                    一日も早く、この戦争を終わらせて

                    一人でも犠牲者を少なくする道を

                    なぜ探らない、選ばないのか

                     

                    と、

                     

                    もちろん家の中で声を潜めてではあるけれど

                    嘆いていた祖母にとって

                    勝てる勝てると国民の心を掻き立てて

                    多くの命を投げ捨てた戦争の終結のあり方を

                    曖昧にすることは受け入れ難かったようだ。

                     

                     

                    物心ついたときからディズニー映画を観て

                    バービー人形で遊んでいた私にとって

                    祖母の言葉は、なんと言うか、

                    年寄りの昔話のようなもので

                    心のどこかに留まって

                    いくらかは考えに影響を与える程度のものだった。

                     

                    その祖母の言葉が

                    平手打ちのように自分の心を

                    ピシャリと打つように甦った出来事があった。

                     

                    一人のベトナム人女性と話していた時だった。

                    何がきっかけで

                    どういう流れでそういう話になったかは思い出せない。

                    ただ、お茶を飲み

                    彼女の暮らしについて話している中で

                    彼女の口からこんな言葉が出た。

                     

                    「日本は戦争に負けた国でしょう」

                     

                    この言葉を聞いた瞬間、

                    幾度となく祖母から聞かされていた

                    「終戦やない、敗戦や」

                    という言葉が

                    ピシャリと胸を打つように甦ったのだ。

                     

                    「ドイツとイタリアと日本。

                     最後の世界大戦の負けた国、そうでしょう」

                     

                    一瞬、固まって頷きもしない私に

                    彼女は言葉を重ねた。

                     

                    そうか、日本は戦争に負けた国。

                    世界の中の3つの敗戦国の1つなのだ。

                     

                    歴史の教科書で習った活字が、

                    血肉をもって自分の肩に手を回してきたような

                    生暖かい現実味を持った。

                     

                    この時、たしか30歳を過ぎていた。

                    30歳を過ぎて、何か、

                    大きな世界観での事実に始めて目が開いた…

                    という言い方は大袈裟だろうか。

                    けど、あの時受けた衝撃は、

                    それくらい大きなものだった。

                     

                    私にそう言ったベトナム人女性は、

                    まだ20代だった。

                    彼女の家族は難民として日本へやってきて

                    彼女も幼い頃には

                    周りの日本人の子ども達に比べ

                    自分たちの暮らしの苦しさを感じ取っていたという。

                     

                    その中で、自分のアイデンティティを

                    確かなものにするために

                    彼女は自分のバックグラウンドと向き合って、

                    たとえそれがどれほど過酷なことを含んでいても、

                    真正面から捉えて生きてきていた。

                     

                    彼女のこの姿勢について

                    マイノリティだからこそという理由があるのは

                    否めないし、否まない。

                    けど、彼女のこの姿勢、この強さは

                    したたか、私の胸を引っ叩いた。

                     

                    彼女の若さが

                    一瞬、返答に詰まるような

                    率直な言葉を使わせたのかもしれないが、

                    その率直さに(正直、傷つきもしたけれど)

                    目から大きく分厚い鱗が一枚剥がれ落ちた。

                     

                    事実に糖衣を被せたような

                    ”終戦記念日”という言葉を嫌った

                    祖母の気もちに

                    それまでよりも少し想像力が働くようになった。

                     

                    卑下する必要はない。

                    卑屈になる必要もない。

                     

                    ただ、終戦ではなく敗戦という言葉を

                    一度は自分の胸の内で呟いてみることで、

                    自分が生まれ育ち

                    いま、安心して日々を暮らしている

                    この日本という国のことを

                    可能な限り

                    思い込みや思い入れから解放された

                    明るい視力で見られるのではないだろうかと。

                     

                    今年もまた、

                    祖母から直接、戦争の話を聞いたという経験を

                    財産に思う8月15日だ。

                     

                     

                     

                    JUGEMテーマ:エッセイ

                    | 言葉の話 | 15:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    「感謝」というコトバの明るさ。
                    0

                       

                      コトバの意味を知るというのは

                      ほんとうのところ、

                      とても難しいことだと思う。

                       

                      辞書をひいて、文字的に、

                      なんというか頭で理解するということと、

                      ハッとか、アッとか、

                      そうか、そういうことなのか…と

                      お腹の底から湧いてくる理解という

                      2つの分かり方があって、

                      後者の方は格別に難しい。

                       

                      また、それだからこそ、

                      そうか、そういう意味だったのか、と

                      コトバについての思いが深まるからこそ、

                      人の心は丸く、深く、鋭くなっていけるのだと思う、

                      幾つになっても。


                      そして、つい昨日一昨日の週末、

                      「感謝」というコトバについて、アッと気づいたことがある。

                       

                      出来事については、個人的な話に関わるので、ざっくりと。

                       

                      友人に、とてもオープンな心の持ち主がいる。

                      自分が体験してきたこと、経験したこと、

                      感じたことについてオープンに話す。

                      初対面の人へも、礼儀正しくはありながら、

                      ざっくばらんに話しかけ、仲良くなる。

                      ともかくも、コミュニケーションが活発だ。

                       

                      スポーツとアウトドアライフとアートを楽しみ、

                      仕事にもポジティブ。

                      ともかくも、人生を楽しんでいる、そういう人だ。

                      そんな、両手に太陽と星空を抱えて生きているような

                      その友人には、

                      少しコミュニケーションに障がいのある兄弟がいる。

                       

                      真夏の太陽と風を浴びながら、

                      一緒にアウトドアでの休日を満喫するなかで

                      その話を聞いていて、あ、と思った。

                       

                      この人は、人と自由にコミュニケーションすることが

                      どれほど恵まれたことかを、

                      皮膚感覚で知ってきた人なんだろうと。

                       

                      体験したことを、思ったことを、感じたことを、

                      自分のコドバで誰かに伝えることが、

                      与えられた自由であり、

                      恵まれたことだと感じている人。

                       

                      重く、難しく、深刻ぶることなく

                      自分に恵まれたそのことを大切に、謳歌している。

                       

                      自分が恵まれたことを知り、

                      大切に、それをけして無駄にすることなく活かす、謳歌する。

                       

                      それが「感謝」なんだと。

                      ドキッとした。

                       

                      「感謝」とは、なんと明るいものなのだろうかと。

                       

                      また一つ、お腹の底に落ちてきた、

                      コトバの意味を味わいながら

                      真夏の太陽と風と月明かりを、たらふく味わった週末だった。

                       

                       

                       

                      JUGEMテーマ:エッセイ

                       

                      | 言葉の話 | 08:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
                      わらしべ長者的。
                      0

                         

                        陳腐に思える常套句というものがある。

                         

                        たとえば…「信じた私が馬鹿だった」

                         

                        信頼しきっていた人が、

                        実はそうも信頼に値する人ではなかったと

                        ふと気づいた時のやるせなさ。

                        腹が立つというのは、とうに通り越して、

                        自分が哀しくて、やりきれなくて、

                        心にも体にも力が入らない。

                         

                        そういう経験というのは、

                        とりたてて珍しいことではないと思う。

                         

                        ただ、一度ならず二度、三度…となると、

                        何なんだ、君はっ、と

                        自分を自分の前に座らせて

                        その学習能力の低さに、

                        説教始めたいくらいだよ、と

                        自分の心に目を凝らす。

                         

                        …とまあ、

                        そんな感じでぼーっとしていると、

                         

                        でもなあ、「ワタシを信じろ」と

                        強要されたわけではないんだよなあ。

                        まあ、こっちが勝手に信じたんだよなあ。

                         

                        という心の声が。

                         

                        なるほどねえ。

                        自分でしたことじゃないか。

                         

                        ごく当たり前のことに気づいただけなんだけど、

                        自分的には目から鱗です。

                        視野がさーっと開けて行く感じで、

                        力が戻ってきました。

                         

                        で、続いて浮かんだ言葉が、

                         

                        「信じた私が馬鹿だった」

                         

                        これまた、目から鱗でした。

                         

                        言い古されて、

                        陳腐な感じもするこの常套句が、

                        挙げ句の果ても、尽き果てた、

                        とどのつまりの結論じゃないかと。

                         

                        たぶん、今までだったら

                        使うのを躊躇していただろうこの言葉への感覚が、

                        パッと変わりました。

                         

                        ウラミでもツラミでもなく。

                        自分を卑下するわけでもなく。

                        ただ、それだけのこと、という。

                         

                        受け容れて、手放せというような、

                        潔さをもった言葉としての、

                        実体が、自分のなかに生まれました。

                        言葉に息吹を与えられたとでも言いましょうか。

                         

                        これで、この常套句は、私にとって、

                        使い古された常套句ではなくなりました。

                        新しい言葉を得た喜びで、上機嫌です。

                         

                        出たっ、わらしべ長者。

                         

                        バカも案外、いいかもよ。

                         

                         

                        JUGEMテーマ:エッセイ
                         

                        | 言葉の話 | 07:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
                        感動、は分かち合い
                        0

                           

                          昨日、「感動を与える」という言葉について考えていて

                          思い出した言葉がありました。

                          それこそ、深く感動した言葉です。

                           

                          「違和感のある言葉」

                           

                          去年の夏の、シルク・ド・ソレイユ「トーテム」での、

                          北米先住民のシンガーの言葉です。

                           

                          北米先住民が受け継いできた文化を、

                          彼らの母語で歌い綴った彼が言ったのは、

                           

                          「私は、私の母語による歌や、楽器演奏を

                           お見せしたのではない。

                           私の母語で語り、歌い、

                           心、文化、受け継いできた血を

                           世界中の観客と分ち合ったのです。

                           皆さんと分かち合えることができて、

                           とても光栄で幸せだ」

                           

                          と、こんな内容だったと思います。

                           

                          この、見せたのではない、分かち合ったのだ、という言葉に

                          胸が熱くなったのを覚えています。

                           

                          力強くて、謙虚で、包容力のあるその言葉に、

                          感動は分かちあうものなのだと、

                          あらためて教えられました。

                           

                          送り手の心が伝播してきて、受け手の心が動く。

                          感動するって、たしかにそういうものなのだと。

                           

                          あの日、「トーテム」のショーがこんなに感動的なのは、

                          それを生み出す人たちがステキだからなんだと

                          教えてくれた言葉でした。

                           

                           

                                         言葉は人の心を映す影

                           

                           

                           

                          JUGEMテーマ:エッセイ

                          | 言葉の話 | 08:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
                          違和感のある言葉
                          0

                             

                            どうにも馴染めない言葉の使い方、選び方について

                            どうしてそう思うんだろうと考える途中の寄り道が

                            長くなってしまって書きやめた昨日の続き。

                            言葉という人柄

                             

                             

                            人の言葉の選び方にとやかく言わないのが

                            基本的な考えなのだけど、

                            それでもやはり、どうにも合わないなあという

                            言葉の使い方がある。

                             

                            言葉の人柄を好きになれない、というのだろうか。

                             

                            そのうちの一つが、

                            いつ頃からか耳にするようになった

                            「感動を与える」という言い方。

                             

                            感動は、受け手の心の働きで、

                            送り手が、感動与えまっせ、というものだろうか、と

                            その辺りから、ちょっと考えてしまうのだけど、せめて、

                            「感動を届ける」ではないかと思うのだ。

                             

                            この「与える」という表現は、

                            もしかして、感動をギブするという英語的言い方からなの?と

                            一度考えたこともあるのですが。

                             

                            尊敬するとか、尊重するとか、敬うとか、

                            大切にするとか、重んじるとか、そういう気もちや感覚を

                            「リスペクトする」と言いはじめたように、

                            「感動をギブする」って感覚で使い始めたのかしらと。

                             

                            「サポーターの皆のホットなハートをばっちりテイクして、

                             ベストをドゥして、感動をギブするよ」とか言う感じで。

                            (なんじゃ、これ。書いてるうちに、ルー化してしもた)

                             

                            で、ここで、でも英語で感動するとか、したとかってのは、

                              I'm moved.

                              I'm touched.

                              I'm impressed.

                            送り手側から言えば、

                             I will impress you.

                            強く心に印象を残す…なくらいな言い方じゃなかろうか。

                             

                            第三者が「感動と勇気を与えました」とかいうのは

                            何の違和感もないですが、

                            送り手が、「感動を与えるよ」っていうのは、

                            その思いや、意気込みは分かる気はするのですが、

                            やはり、違和感を消せないのです。

                             

                            たとえば、実際に面と向かって話している相手に、

                            友だちとか、恋人とか、パートナーや、

                            思えば親兄弟にだって、

                            「これをあなたに与えるよ」

                            とか言われたら、なんかちょっと、

                            ウッとか、一瞬でもね、そんな感じがしないかしら。

                             

                            一対一でも、一対多数でも。

                            ぱっと投げた糸の束は、広がりながら一本一本になって

                            一つ一つの着地点に落ちていくように、

                            言葉も、多くの誰かに向けて発しても、

                            届く先は、一人ひとりのなのだと思う。

                             

                            と、こう考えていて、

                            感動を求められる気配を感じて、

                            それに答えようと出る言葉なのかも知れないなあと、

                            そんなことも思ってしまう。

                             

                            う〜ん。そうか。

                             

                            「感動を与える」という言葉へのずっと消えない違和感の理由は、

                            思いのほか、深い深いところにあるのかもしれない。

                            言葉って、無限の人の心を吸い込み、包み含んでいるのだと

                            あらためてズシッときた。

                             

                             

                             

                             

                             

                            JUGEMテーマ:エッセイ

                            | 言葉の話 | 08:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
                            言葉という人柄
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                              言葉の使い方、選び方というのは

                              その人その人の個性だから、

                              人のそれにとやかく言うのは、あまり良しと思わない。

                               

                              仕事柄、時々、人さまから

                              「これ、ちゃんとした原稿にしてください」と

                              草稿をお預かりすることもあるが、

                              そういう時に心がけるのは、

                              できる限りその人の文章の持ち味を損なわないことだ。

                               

                              たぶん、こういうことをおっしゃりたいのだろうと

                              思いの核を汲み取って、

                              あとは、その人の文章のリズムに沿って

                              その人が使いそうな言葉を選びながら

                              最小限に手を入れていく。

                               

                              最小限に手を入れるというのは

                              最小限に仕事をするというのではなく、

                              できるかぎり元の文章をこわさずに、

                              要所要所をアレンジしながら、

                              文意をはっきり、伝わりやすくするということだ。

                               

                              とは言え、時々、

                              バッサリと元のカタチがない程に書き替える

                              場合もありますが、それはまた別の話。

                               

                              文は人なりというように、

                              お預かりした文章を読んでいると、

                              ああ、朗らかで素直な方だなあとか、

                              あちらこちらに気を使っている方だなあとか、

                              なんと真面目な方だとか、

                              何となく、その方の姿が見えてくる、何となく。

                               

                              そりゃあ、あんたの思い込みだ、と言われれば

                              そこまでかもしれないけれど、

                              華を活ければ花に、

                              書を書けば文字に、

                              弦を爪弾けば音色に、

                              そこはかとなく、その人らしさが表れるように、

                              やはり文章にもその人らしさが表れる。

                               

                              と、思うのよ。

                               

                              だから、お預かりした文章を読み、

                              会議やインタビュー、

                              仕事の合間のちょっとした息抜きの時に

                              垣間見える人柄を思い浮かべ、

                              どんな風にその人らしさを表そうか考えながら

                              文章に手を入れていくわけです。

                               

                              その人の考えと一緒に、

                              その人そのものを表現する。

                              言葉を通してそういうことをしていくわけです。

                               

                              影が本人にピタリと沿うように、

                              その人の人となりに沿う言葉で伝えようとするわけです。

                               

                               

                              …と、ふと思ったことを書こうと思って、

                              ちょっと、そう思うところまでの寄り道が長くなり、

                              文体が、である、なのよ、ですます、と、入り交じる始末。

                               

                              ちょっと一息置いて、続きはまた明日書こう。

                               

                               

                               

                               

                              JUGEMテーマ:エッセイ

                              | 言葉の話 | 07:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
                              「金に急いたら、花、咲かん」
                              0

                                 

                                「金に急いたら花咲かん」


                                もう昔の、ず〜いぶん若かった

                                桃の節句のころに聞いた、

                                近所の花屋のおじちゃんのコトバです。

                                 

                                店先には何種類かのバケツに入れ分けられた桃の花があって、

                                枝ぶりや花や蕾の充実など

                                素人目にもその区別の理由はそれなりに分りましがた、

                                2つ、一見して、そんなに大きな違いを見受けられないのに

                                お値段がそこそこ違っているバケツがありました。

                                2つのバケツを前に、この差の決め手は?と考える私に、

                                おじちゃんが言ったのです。

                                 

                                「1つは古い木の枝、

                                 1つはまだ若い木の枝。

                                 ぱっと見て、蕾のつきが似ていても

                                 花が咲いたら違いが分る。

                                 若いうちに切った枝か

                                 十分に年月待って切った枝か」

                                 

                                へえ、そうなのか…と思ったところに、

                                おじちゃんのひと言。

                                 

                                「金に急いたら、花、咲かん」

                                 

                                客あしらいは奥さんに任せて、

                                あっちのバケツをこっちに、

                                こっちのバケツをあっちに、

                                年期のはいった長靴で黙々と動き回る

                                おじちゃんは背中ごしに、こう付け加えました。

                                 

                                「花も人も一緒やな」

                                 

                                おじちゃんの引退で、そのお店はなくなりましたが

                                このコトバは、心のうちから、なくなりません。

                                 

                                仕事を続けていると、

                                ついつい、楽をしたくなったり、

                                仕事をお金に換算してしまいそうになったりすることが

                                正直、あります。

                                そんな時、おじちゃんのこのコトバが降臨します。

                                 

                                おじちゃんは、

                                花咲か爺さんであります。

                                 

                                 

                                momo

                                 

                                 

                                JUGEMテーマ:コトノハ

                                | 言葉の話 | 07:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
                                冬の真珠
                                0

                                   

                                  真珠は、冬にこそ、美しく育つ。

                                   

                                  あっちもこっちも、いろんなこと…どころか

                                  自分をとりまく何から何までうまくいかず、

                                  どうにも気が沈んでしかたない時

                                  自分にかける言葉のひとつ。

                                   

                                   

                                  冬になって水が冷たくなると

                                  真珠層が密にしっかりと巻いて

                                  肉厚の美しい照りが生まれる。

                                   

                                   

                                  いつだったか真珠を育てる職人さんが

                                  こんな風に話してらっしゃるのを聞いて以来、

                                  ああ、ツラい…と

                                  暗く冷たい谷底を歩く気分に落ち込んだ時、冒頭の

                                   

                                  「真珠は、冬こそ、美しく育つ」

                                   

                                  というコトバを、自分にかけてやるようになりました。

                                   

                                  そうだ、ここを超えたら、内側に光を得られるんだと。

                                   

                                  いま、ここで、くさらず、投げず、

                                  ていねいに、一巻きひと巻き、自分を育てることができたら、

                                  もう、飾り立てなくったって、

                                  内側からぴかっと、輝きを放つようになれるんだもの。

                                   

                                  チャンスだよ、チャンス。

                                  今は、人として美しくなるチャンス、と、

                                  自分を励ましてやるようになりました。

                                   

                                  さて、いかほどの光を得られたかは分かりませんが…

                                  このコトバを思うことで、

                                  冬の暗く冷たい谷底を歩いている気分の時に、

                                  心の中に灯火を得られることだけは確かです。

                                   

                                  さて今日も、言葉のチカラを信じて、朗らかに。

                                   

                                  JUGEMテーマ:コトノハ

                                  | 言葉の話 | 08:57 | comments(0) | trackbacks(0) |