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ぱんせどフランセ

思いつくまま、たまに仕事のことなども。

福祉の現場に生きる人たちへのインタビューをもとに書いた
ルポルタージュ「日々を織る」も連載しています。

ブランディングについての記事は、フランセのWebに書き始めました。
花が咲っていて「ただいま」の瞬間がはんなりする。
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    驚くことに、驚いたことに、もう3月の第2週ではないか。

     

    1月は行く、2月は逃げる、3月は去る、と言うけれど。

    昔からそう言うのやと、祖母もよくそう話していたけれど。

    いやほんとうに、行く姿も、逃げる姿も目にもとまらぬ速さで

    駆け抜けて行った2022年の1月、2月。

     

    何をしていたっけと振り返ると、いろいろしていた。

    いろいろしていたのだけど、何もできていないような気にもなる。

    一つひとつを重ねてきたのだけど、

    時が駆け抜ける速さの前で蹴散らかされて何もできていないような気になる。

     

    取材を重ねて、情報を編集し、プロットを構想し、

    一文字ひと文字を選んで繋いでいく。

    遅々と重ねるそんな歩みが、時の速さの前に蹴散らかされていくような

    切ない気持ちになってしまった。

    いや、焦らなくていい、確実に積み上げていく原稿が時の証だ。

     

    ほんの数日前の雛祭りも遠い昔の思うほど毎日が速いけど、

    雛飾りの名残りだって、まだそこにある。

    慌ただしく出かけ、慌ただしく帰ってきた今日も、

    花は静かに咲っていた。

    扉を開けると花が咲っていて、「ただいま」の瞬間がはんなりする。

    大丈夫。

    このはんなりのなかに留まる数秒があるのだから、まだ大丈夫。

     

      hinamaturino

     

     

    JUGEMテーマ:日々の切れ端

    | ふと思ったこと | 23:08 | comments(0) | - |
    歩く力、生きる力。
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      足腰の弱りは一気に老化を進める。

      高齢化について頻繁に耳にしてきたことだ。

       

      もう十数年以上も昔のこと。

      90歳を過ぎた殿方がおられた。

      若い頃、文士として名を知られ、

      当時の、アナーキストや無頼を地でいく暮らしぶりについて

      沈黙のご本人をよそに、周りの人たちから聞かされたものだ。

      90歳を過ぎたその頃もオシャレで、

      食事にはワインを欠かさず、

      会食のテーブルに麗しき女性がいれば

      いつもより目が力強く輝く方であった。

       

      その殿方が転倒して腰から足にかけて骨折してしまった。

      幸いケガは2、3か月で完治したものの

      脚力がすっかり衰えてしまい、

      自由に歩けるようになるまで長くかかった。

      その間に、食べる量も減り、体力が落ち、

      何より記憶力や認知力が衰えてしまった。

       

      ずいぶんと馬鹿になったものだ、と

      思考力、洞察力の明晰さを失ったことを

      歯がゆそうに口にされることもあったが、

      こと文学の話になると

      同席する若い人も圧倒されるほど

      舌鋒するどく意見を述べられていた。

       

      ご自宅から出ることもなくなり

      お会いする機会もなくなってしまったが、

      近況だけは知らせていただいていた私たちは

      その話を耳にして、ずいぶんと胸が痛んだものだった。

       

      今年、1月に始まったコロナ禍。

      正体不明の感染症に、高齢の母親は外出を控えた。

      早朝の散歩だけはしていたが、人の中を歩くことは控えた。

      「足腰が弱ったらどうしよ」と心配しているうちに

      あの緊急事態宣言となった。

      緊急事態宣言が解除になってホッとしたのも束の間、

      殺す気か!?とぼやきたくもなる酷暑であった。

      年明け早々からの引き籠もり生活で

      体力控えめになった母親が、

      あの酷暑の下をマスクをして出歩くのは危険で

      どうにもいただけなかった。

      それはちょっと無謀である、とんだ冒険野郎である。

       

      そしてやっとこさの秋。

      体力の衰えを取り返そうと外に出て歩きはじめた母親、

      案の定、脚力が弱っていた。

      歩く速度が落ちて、距離ももたない。

      えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、であった。

      散歩の量を増やすところからはじまり、

      繁華街にも出かけるようになった。

      イルミネーションが町を飾り始めて間もなく、

      日暮れの散策に誘った。

      夜道は視界が悪いらしく少し躊躇していたものの、

      出てみれば華やいだ街を楽しんでいた。

      そしてその夜散歩をきっかけに、驚くほど体力が上がった。

      脚力の衰えに伴って、増えていた物忘れもおさまってきた。

      すごいものだと感心した。

       

      ilumination_nakanoshima

       

      ここ数年、暗い夜道を歩くのを怖がっていたのだが、

      そのイルミネーションを楽しむ散策以来、

      日暮れの街を歩くことにも積極的になった。

      昔旺盛だった好奇心が戻ってきたようでもある。

      ほんの少しのきっかけで、

      母親の中に何か大きな変化があったように思う。

       

      11月半ばから感染者が鰻上りに増えはじめ

      高齢者の不要不急の外出を控えるようにとの要請が出た。

      もちろん、人混みへの外出はしない。

      けど、マスクを着けて、

      人との距離を適切に保つことを心がけ、

      不特定多数の人が触る場所には極力手を触れないようにして

      除菌の手ふきシートを持っての外出は続けている。

       

      足腰の弱りは、高齢者にとって命取りだと思う。

      生活の質、Quality of life が著しく下がる。

      それは生きる力に繋がっていく。

       

      つい2、3日前、懐かしい人にばったり出会った。

      母より少し年下の方で、趣味を通じて知り合った女性だ。

      海外旅行が好きで、よくお会いしていた20数年前には

      体力づくりにと週に数回、1000〜1500メートルを泳いでおられた。

      その方も、今、注意を払いながら外出していると仰っていた。

      数年前、膝を痛めて歩けない時期があって

      記憶力や思考力が如実に衰えていくのを感じたそうだ。

      「閉じ篭るというのもね、年寄りには危ないのよ」と仰った。

      今も、脚力をつけるために水中ウォーキングを続けておられるという。

      その方に2年ほど前にもお会いしたのだが、

      ちょうど水中ウォーキングのためにプール通いを再開された時期だった。

      そのときは、すこしお老けになったかなと感じたのだが、

      2、3日前のこの日は、昔ながらのエネルギッシュな笑顔が戻っていた。

       

      母といい、この女性といい、もと無頼の殿方といい。

      足腰の弱りは老化を進める、という話を思った。

      ほんの少しのきっかけで、老け込んでも行くし、若返りもする。

       

       

      JUGEMテーマ:エッセイ

      | ふと思ったこと | 15:35 | comments(0) | - |
      一夜明けたらひらめいた
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        普段あまり手に取らない類いの本を読んだ。

        ”How to” をかいつまんで教える本。

        頷きながら読んだ。

        そう、そう、そうねと言う感じだった。

        ところどころ速度を落としながらの斜め読みで、

        二百数十ページを2時間足らずで読み終えた。

        読後の感想は、

        いろいろと確認できて良かったかなと言うくらいのものだった。

        実際的なところに学びが多かったし、

        安直さに抵抗を感じたところは自分の価値観への鏡になった。

        うん、読んで良かったと思った。

         

        そして一夜明けて今朝、歯磨きしていて、あ!と思った。

        そうか、繋がるぞ!と思った。

        自分が主軸にしている仕事とは多少のジャンル違いの方法論と

        自分のやりたいことに接点が見つかったのだ。

        ここから考えを広げたり深めたり詰めたりと整えていくのだけれど、

        一夜明けてのこのひらめきを大切に育てていこう。

         

        いつもとは違う本棚の前を歩いて見るというのもいいね。

         

         

        JUGEMテーマ:日々の切れ端

        | ふと思ったこと | 19:13 | comments(0) | - |
        抹茶ぼた餅。
        0

           

          お昼ご飯をいただくタイミングを逃し、

          さりとて夕ご飯まで辛抱できそうにないし、

          ちょっと、おやつでつなごうと。

          ちょうど、梅田に出ていたし、

          好物の仙太郎のぼた餅を買って帰ることにしました。

           

          春のお彼岸さんとあって、

          ショーケースにはぼた餅がずらり。

          粒あん、きな粉、七穀、黒豆、赤飯、ごま、に並んで

          抹茶ぼた餅がありました。

           

          いつものおいしさか、珍しい抹茶ぼた餅か。

          二つや三つや四つや五つ。

          その気になれば、全種類、食べきる自信はありますが、

          それはならぬ、してはならぬ。

          と、めずらしく、きっぱり自分に言い聞かせ。

           

          ころんとまるい抹茶色が、

          若草におおわれた小さな丘のようにも見えて、

          あ、春だ、春じゃないか、春を感じるじゃないかと。

          抹茶ぼた餅に決めました。

           

          抹茶餡の、甘さの向こうからやってくる、

          ほわっとほのかにほろ苦い風味の

          始めてのお味は、やっぱり、おいしかった。

           

          仙太郎さんだから、お味が悪いわけはないと選び、

          いただいて、やっぱり美味しいと思う。

          この、安心感と信頼。

          まさしく、ブランドですね。

          あ、いや、のれん、って言った方が似合うかな。

           

           


           

          | ふと思ったこと | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
          アッチッチ。
          0

             

            雰囲気のよいカフェでいい気分を味わっていると、

            店のどこかで一組の客が口論を始めた。

            低く小さな声が、どんどん高く大きくなってきた。

            カフェの空気は一変し

            味わっていた気持ちの穏やかさは消えてしまった。

            店内のどの客も同じような心持ちらしく、

            それぞれの表情が曇る。

            中には曇るを通り越して険しくなる人もいる。

             

            そこにいる人から醸し出される空気のいうのは、

            場の雰囲気をつくりあげる。

            曇りや険しさを表情に表す人がそこここにいれば、

            当然、その場の雰囲気は険悪なものになり、

            その雰囲気にのまれて、

            最初は、ああイヤだ、うんざりだ、

            その場を去ろうと思っていた人たちまで、

            何かその場で被った嫌な気持ちを、

            その場に吐き出してしまいたいような気分になった。

             

            こうやって、一組の客の小さな口論が大ごとになって、

            やがて、その場にいた皆が疲弊して

            いったい全体、始まりはなんだったのかと振り返れば、

            火種となった2人の間の、

            考え方の違いを理解し合っていく中での

            言葉の行き違いであったり、誤解であったりで。

            人と人が関わっていけば、ごく普通に起こることで、

            それは話し合いや、お互いの行動をとおして

            いつかは解消されていくものだったり、

            最後まで相容れることができずに、

            その2人が袂を分かつという結果に終わる

            その人たちの問題だったわけだ。

            それが、周囲に飛び火して

            周りの皆も大火傷をしてしまっていた。

             

            無関係な火種で火傷をしないためには、

            火に近づかないことが一番だ。

            そんなことは、言うまでも言われるまでもない。

            けど、人というもの、そうも賢くばかりはいられない。

            旺盛な好奇心転じた野次馬根性で、

            対岸の火事の様子を見ているつもりが

            もっと近くで見てみたいと、ジリジリ近づいて、

            知らず知らずに火の粉を浴びていた、と。

             

            つい最近、SNSで炎上している問題を、

            これはいったいどういうことなんだろうか。

            一つのことに対して、

            今の、人の気分はどんな風に反応しているのだろうか、

            どんな風に捉えられ、受け容れられているのだろうか。

            伝え方のどこに不具合があって、こんなことになったのだろうか。

            そんなことを、ちょっと見つめ察してみようと

            いろいろな言い分をすこし追いかけているうちに

            ああ、なんか、疲れた、と、

            とても嫌な気分になってしまった自分を傍観して、

            こんな風に思い至った。

             

            側にいる人の機嫌というものは、伝染してくる。

            身内や、友だちだって、

            ちょと、どうしようもなく機嫌の悪い時、

            それも自分になんの関わりもなくそうなっている時には、

            さわらぬ神に…と、そっと適度な距離を置くというのに。

            人のふり見て我がふりを、直せるほどには至らないが、

            心するべきことをいくつかは学んだところで、

            膏薬貼っつけとけば治るほどの火脹れ持って、退散、退散。

             

             

            JUGEMテーマ:日々の切れ端

            | ふと思ったこと | 11:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
            等身大と少しの自分。
            0

               

              等身大の自分。

              ありのままの自分。

              自然体の自分。

              飾らない自分。

              素顔の自分。

               

              いろんな言い方があるけれど、

              そんな風にいるって

              なんて、むずかしいことだろうと思う。

               

              まず、そもそも、だいいちに、

              等身大の、ありのままの自分というものを

              私は分かっているのだろうかと。

              そういうことろからして、不確かなのだ。

               

              一介の私、という言葉、

              取るに足らない小さな私という言葉に、

              何かしらホッとするものを感じるのは、

               

              たぶん、そんな小さな自分が、どれほど、

              自分を大きく見せようとか、

              強い振りをしようとか、

              賢く思われようとか、

              力んでも、背伸びしても高が知れている。

              そんな気楽さを与えてくれるからだろうと思う。

               

              小さな自分が、自分の筋力で

              一日中歩ける程度の爪先立ち。

               

              やりたいことが、できるようになるために。

              ちょっと息が上がる程度の駆け足も

              必要だと思う今日この頃。

               

              等身大の自分を、本当には分からないままの自分が

              正体不明、五里霧中のなかにある等身大を

              時々、ちょっと超えて

              力んだり踏ん張ったりすることが

              きっとあるぞという今日この頃。

               

              無理をする日は、一日中歩ける程度の爪先立ちで。

               

              と、とりとめもなく考えている10月下旬。

              そろそろ、来年のことなど考え始めたりする

              今日この頃です。

               

               

               

              JUGEMテーマ:日々の切れ端

               

              | ふと思ったこと | 07:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
              言葉になる前の時間
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                高齢化する親と生きていく。

                 

                自分を含めて40代50代60代の仲間たちの

                現実的で切実な問題になってきた。

                 

                その現実と

                一人で向き合うことになったらと

                想像するだけで

                怖いくらいの心細さで胸が塞がった。

                 

                その時、思い出した言葉が

                「一人にしない、一人にならない」

                 

                仕事を通じで出会った

                福祉の現場で生きる人たちが

                合い言葉のように口にしている言葉だった。

                 

                その現実と向き合っていくヒントを

                見つけることができないかと。

                その「合い言葉」を実現するための

                日々について話を聞かせてもらって

                ルポルタージュを書き始めた。

                 

                このブログに毎週木曜日にアップしている

                ルポルタージュ「日々を織る」だ。

                 

                書くことが、ほんとうに多くのことに気づかせてくれる。

                 

                書いていることで、

                福祉の専門性どころか、

                すでに、介護などに向き合ってきた人だけの

                知識も経験も無い私を

                今まで誰にも言えず、一人で

                抱えてきた悩みや問題の話相手に、

                重くなった気もちに風通しをする知人がいる。

                 

                そんなこんなで、毎日、新しい考えの芽が生まれて

                洪水のように頭の中に溢れかえっている。

                 

                考えが言葉になるまでの

                沈黙の時間が、もっともっと必要なんだと思う。

                 

                とりとめのないまま言葉にしていくことで

                考えを見つけ出していくよりも

                もっと手前の、

                言葉にすることも忘れて

                とりとめのない考えに耳を傾ける時間。

                 

                これからの秋の夜長、

                そんな風に時間を過ごすのにぴったりだ。

                 

                 

                 

                JUGEMテーマ:ひとりごと

                | ふと思ったこと | 14:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
                あなたは「雨男・雨女 or 晴男・晴れ女」どっち?
                0

                   

                  あなたは「雨男・雨女 or 晴男・晴れ女」どっち?

                  うん、晴れ女。

                  てるてる坊主と呼ばれたりもする。

                   

                  ピンポイント、選択肢なしで入った大事な約束の日、

                  天気予報では雨だったり雪だったり。

                  街中ならばいいけれど、

                  ちょっと山の方だったりすると

                  それは、とても辛い、キツい。

                   

                  でも、なんというか、

                  きっと天気予報から、時間ズレるよ、と

                  意味も根拠もない自信、それも絶対的な確信がある時。

                  これはどうしても行きたいんだ、やりたいんだ、と

                  熱烈、猛烈、強烈に望む予定の時。

                  お天気に恵まれます。

                  すくなくとも雨は降らない。

                  もちろん、100%とは言いませんけども

                  ここぞという時は、ほぼ100%、ありがたいことに。

                  よしんば降っても、

                  屋内にいるときとか、大切なポイントの前後とか。

                   

                  なんですけど。

                  世の中、チャラにできていて。

                  もう、ほんとうに、いやいや、泣く泣く、

                  どうしたって、気乗りしないんだけど、

                  自分の気分や言い分が、百分の百とおるほど

                  人生甘くな〜い、わけで、

                  ほんとうに、しかたなく、出かけるときは

                  雨になる。

                  それも、バケツをひっくり返したどころか、

                  下からも降ってくるくらいの土砂降りだったりして。

                   

                   

                   

                  JUGEMテーマ:日々の切れ端

                   

                  | ふと思ったこと | 08:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  負けん気のダシドコロ
                  0

                     

                    悔しいんと思わへんのか?

                    負けても悔しいとは思わへんのか?

                     

                    子どものころ、幼稚園のころ

                    祖母に言われたコトバだ。

                     

                    祖母の家の近所の同い年の子たちと

                    何か、勝ち負けのある遊びをして、

                    負けてもいっこう悔しがる様子のないワタシに

                    祖母が投げかけた。

                    いや、投げつけたと言った方がいいかもしれない。

                     

                    負けたこと、どころか

                    勝ち負けを競ってきたことすら忘れたかのように

                    自分の好きな絵本だか何かを広げて

                    満足げに一人遊びをはじめたワタシに、

                    まるで自分が負けてきたかのように

                    腹立たしげに問う祖母。

                     

                    う〜ん。

                     

                    絵本を膝に広げたまま

                    間延びした返事をするワタシ。

                     

                    あんたには、負けん気、いうもんがないんか?

                     

                    う〜ん。

                    無い…かなあ。

                     

                    首をひねって考えた挙げ句

                    孫から出てきた答えは、

                    無い…かなあ。

                     

                    歯ぎしりせんばかりに悔しがっていた祖母、

                    拍子抜けしたように、

                    そうか…、と言った。

                     

                    この、一幕を見ていた母も

                    かなり呆れたらしく

                    その後、社会人になっても繰り返し聞かされた。

                     

                    たしかに、今も、人との競い合いに対して

                    あまり負けん気が働かない方である。

                    いや、勝てば嬉しいし、負ければ残念である。

                    負けん気が皆無なわけではない。

                     

                    それが証拠に、自分でも驚くほど

                    負けず嫌いになることがある。

                    親しい友人は、

                    あ、負けず嫌いが出た、と言う。

                     

                    ただ、その負けたくない相手が

                    ほとんどの場合、誰かではない。

                    他の誰かでもないし、

                    自分に負けたくない、というような

                    ちょっとカッコよさげなものでもない。

                     

                    なんというか、

                    できないというのが、どうにも嫌なのだ。

                    自分自身で決めたハードルを

                    越えられないという意味での負けが嫌なのだ。

                     

                    もちろん、自分にはできないことが

                    山ほどあることは分かっている。

                     

                    できること、できないことを、

                    きちんと分けることで、

                    できることの質をあげていくことの

                    大切さも分かっている。

                    仕事の経験が増えていくごとに

                    その大切さへの理解が深まっている。

                     

                    できることと、できないことを、弁える。

                    することと、しないことを見極める。

                    そのうえで、

                    すると決めたことについては、

                    負けず嫌いに、打ち込んでいく。

                     

                    そうやって、すこしずつ

                    自分の決めたハードルを超えていくことで、

                    できると見極めたことが、

                    ほんとうにできるように、なっていくのではないだろうか。

                     

                    負けて悔しいと思わへんのか?

                    あんたには、負けん気、いうもんがないんか?

                     

                    そう聞いた祖母に、今ならこう答えるな。

                     

                    負けん気の出しどころを選んでるねん。

                     

                     

                    JUGEMテーマ:エッセイ

                     

                     

                    | ふと思ったこと | 07:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    人との出会いの結び方
                    0

                       

                      人との出会い方には2種類ある。

                       

                      ふと、そんなことを思った。

                       

                      人と出会う、というのは

                      相手のことを心に留めて

                      自分との結び目を作っていくということだ。

                       

                      微笑みを交わし

                      いくつかの言葉を交わし

                      いくらかの時間を共に過ごし

                      じゃあね、とそれぞれの道へと帰っていく。

                      そういうのは”行き会う”のであって、

                      ここでワタシが思う

                      “人と出会う”というのとはちょっと違う。

                       

                       

                      ”行き会う”を”出会う”に変えるには

                      引っかけ釘がいる。

                      相手のことを心に留める引っかけ釘。

                      自分と相手との結び目の置き場。

                       

                      この引っかけ釘が、

                      自分の興味や関心からできているのか、

                      相手への興味や関心からできているのか。

                       

                      自分への興味や関心から

                      できている釘というのは、

                      たとえば誰かと知り合った時

                      その相手が、自分の興味や関心に

                      どう関わることができるか、

                      その相手が自分にとって

                      どんな力になるのかを、

                      先ず、最初に考える、釘。

                       

                      相手への興味や関心から

                      できている釘というのは、

                      その相手の興味や関心によって

                      自分の中に

                      どんな変化や新しさが生まれるか、

                      そこから生まれる何かを探したいと

                      先ず、最初に考える、釘。

                       

                      このどちらのひっかけ釘をもっているのか。

                      それによって、

                      人との出会い方は違う。

                       

                       

                      これから歩いていきたい道はどんな道か、

                      その道を、

                      どんな風に踏み開いていこうかと考えるなかで、

                      ふと、そんなことを思った。

                       

                       

                      JUGEMテーマ:エッセイ

                       

                      | ふと思ったこと | 07:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
                      子どもの質問力
                      0

                         

                        友だちの子ども、

                        体も脳も育ち盛りの4歳児。

                         

                        いま、友だちのご両親がアメリカからいらしてて、

                        グランパとグランマとの会話は英語で。

                         

                        普段から、パパとは英語で、

                        ママとは日本語で話しているので

                        右向いて英語、左向いて日本語なんて朝飯前の彼。

                         

                        こないだ、グランパとグランマにお会いした際、

                        彼の英語の吸収力の凄さを嬉しそうに話してらっしゃいました。

                         

                        話していて分からないことが出てきたら、

                        すぐに、それは何?と質問が返ってくると。

                         

                        わからないことを曖昧なままに放っておかず

                        ちゃんと質問してくるから、

                        自分たちの言うことを理解しているのかどうかが

                        はっきりと分かっていいと評してらっしゃいました。

                         

                        その、分からないことがあれば、すかさず質問する。

                        体裁ぶって分かったふりをせず、

                        分からないことを、分からないという。

                        その素直さが、

                        育ち盛りの柔らかな脳をフル活用しているのだなあと。

                         

                         

                        柔らかな吸収力を羨ましいと思う前に、

                        何事に寄らず、

                        その、素直さを倣う勇気が必要だなと、

                        思った次第でございます。

                         

                         

                        JUGEMテーマ:日々の切れ端

                         

                        | ふと思ったこと | 07:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
                        夏を惜しむ
                        0

                           

                          8月になりました。

                           

                          子どもの頃は、まるまるひと月夏休みの

                          この8月が、夏のど真ん中という感じでした。

                           

                          向日葵

                          スイカ

                          花火

                           

                          大人になって、この、

                          8月、夏真っ盛りという感じに、

                          ちょっと異なる感覚が混じってきました。

                           

                          天神祭が過ぎ、

                          祇園祭が過ぎ、

                          土用が過ぎて、

                          夏が行こうとしている。

                          そんな感じがするのです。

                           

                          今に集中しようと思いながら、

                          先の方に意識が、雪崩れるように走っていっている。

                          そんな感じなのか。

                           

                          さあ、夏だ、と。

                          ありあまるエネルギーを感じる一方で、

                          過ぎていく寂しさを感じたりもする。

                           

                          だからこそ、この、

                          焼きつくようなエネルギーが降り注ぐ

                          夏を浴びておかなければと、思います。

                           

                           

                          JUGEMテーマ:エッセイ

                          | ふと思ったこと | 07:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
                          町の姿
                          0

                             

                            近所にスーパーマーケットができるらしく、

                            4月頃から工事が始まっています。

                             

                            郊外から都心へと住まいを移す人が増え、

                            都心の学校の生徒数の急速な増加への対応が

                            求められている、というニュースを裏付けるように

                            日曜日などに、近くの公園を通ると

                            児童の遊具を設えた一角には

                            子どもの群れができています。

                             

                            どちらかというと、

                            仕事を持った大人ばかりの町だったのですが、

                            最近は、少子化というコトバとは裏腹に

                            子ども連れの姿が増えて、

                            町の姿がすこしずつ変わっていくなと思っていたら、

                            レストランやバーが連なる通りに、

                            スーパーマーケットの登場です。

                             

                            町って、止まることなく動いている

                            生き物なんだと、

                            組み上がっていく鉄骨を眺めながら、

                            ふと思いました。

                             

                            JUGEMテーマ:日々の切れ端

                            | ふと思ったこと | 07:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
                            あめんぼ とんぼ とんがらし
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                              ある日、会話中の内容とは無関係に

                              60代の男性が突然言いました。

                               

                              「ごんぼのきんぴら食べたいなあ」

                               

                              コンゴでも

                              コンボでも

                              ボンゴでもなく、

                              彼の口からこぼれでた”ゴンボ”というのは

                              ゴボウ、ごぼう、牛蒡のことです。

                               

                              「ごぼう、じゃなくて、そこは、ごんぼ、なのですね」

                               

                              「あたりまえやん。

                               ゴンボやないと、ウマないなあ。

                               もちろん、効かせるのは

                               とんがらし、やで」

                               

                              そうです、トンガラシは、とうがらし、唐辛子。

                               

                              大阪で生まれ、大阪で育った

                              60代の彼が食べたいのは、

                              あくまでも

                              トンガラシをきかせたゴンボのきんぴら。

                              あくまでも

                              きんぴらゴボウではなかったのです。

                               

                              ごぼう→ごんぼ

                              とうがらし→とんがらし。

                               

                              このレトロな言い方に、

                              秋刀魚の煙があがっていた

                              板の間からつっかけを履いておりる

                              祖母ん家の、土間の台所を思い出さされました。

                               

                              たしかに

                              「きんぴらごぼう、お食べ」と言われるよりも、

                              「ごんぼのきんぴら、おあがり」と言われる方が、

                              懐かしくって、おいしそうな気がします。

                               

                              …と、そのように

                              ゴンボやトンガラシ…という言い方を

                              レトロだのなつかしいだの言っていたのに、

                              こないだ、台所で

                              「トンガラシ、トンガラシ…」と呟きながら

                              唐辛子を探していたわたし。

                              お、お、お。

                              レトロだと思っていたコトバを

                              無意識に使っていたわたし。

                               

                              ごぼうがゴンボになる日も、そのうち来るのだろうか。

                               

                               

                              唐辛子 original from pixabay

                                                                              phot : original image from Pixabay

                               

                              JUGEMテーマ:日々の切れ端

                              | ふと思ったこと | 07:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
                              油断大敵
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                                左のハムストリングを痛めてしまった。

                                五月晴れに誘われての

                                すんごく久しぶりのジョギングのせいでもないし、

                                トレーニングに励んだわけでもない。

                                原因はシンプルに、ビュンビュン歩きすぎ。

                                 

                                そう…

                                それは速歩か、

                                速歩の練習を始めたいのか…というほど

                                ビュンビュンと、大股で、重い荷物を持って、

                                1時間以上歩いたら、

                                左の腿の裏側が、ペキッと痛いのである。

                                 

                                夜、湿布を貼りながら、

                                また、やっちまったぜ…と一人反省会。

                                 

                                ジョギングとか、トレーニングとかだったら、

                                きっと、これ以上は体力を越えているぞ…と

                                多少、自分で加減をしたと思うのだけど。

                                なにせ、普段の生活での、ごく普通に歩く…ということだから。

                                加減もへったくれもなく、

                                脚の動くままに、動きたいままに、

                                進んだのである。

                                で、その運動強度に、自分の筋力が見合っていなかったという…

                                なんとも悲しい結果なのである。

                                 

                                気をつけなければ…。

                                大丈夫、こんなに慣れたことなんだからという、

                                何でもないことのなかに、危険は潜んでいる。

                                 

                                 

                                JUGEMテーマ:こころ

                                | ふと思ったこと | 09:10 | comments(0) | trackbacks(0) |