この間の日曜日、引き出しの整理をしていたら、大振りの封筒が出てきた。
開いてみると、写真の束がいくつか入っていた。
そのうちの真白い封筒には、私の名前が書かれてあった。
誰の字だろうと思いながら開くと、懐かしい人たちとの宴席の写真が数枚。
10年ほど前の、知人の出版記念会と2次会のものだった。
出版記念会のご案内をいただくことが立て続いていたこの頃、
祝辞をお送りして、会への出席はご遠慮させていただくことも多かったのだが、
この方の記念会は、ご案内をいただいた日からずっと楽しみにしていた。
集団の中にいても、けして群れているという雰囲気のない方で、
口数は多くなかったけれど、意見ははっきりと仰った。
我勝ちに発言の機会を奪い合うような大人数での会話より、
目と目を合わせての対話を好まれた。
理知的で凛として、頑固さのある方。
その静かさと強さで向かわれる執筆についてのお話を伺うのも楽しかった。
脱稿し、本に刷る段になったとき、
多く刷って、広く配ってはどうかという周囲の声に、
はっきりと、NO、と仰ったときの清々しさも覚えている。
「自分のこの本を読んでいただきたいと思う人にだけ、
お渡しする册数だけがあればいいのです」
これは私自身のことを私自身が決めたのです、という決心が
穏やかな口調に滲んでいた。
それから少し経って、郵便受けに、この本を見つけたときの嬉しさを覚えている。
執筆中のお話を伺う中で、「読んでくださる?」とサラリと仰ったことはあったが、
ほんとうに私が、この本を読んでもらいたい人たち、の中に入っていたのだと
とても嬉しかった。
丹念な取材と深い理解のうえに書かれた内容は、
私自身が知識を理解を養ってはじめて、分かることができるだろうものだったが、
もっと知りたい、考えたいと、新しい窓、新しい扉が目の前に現れたと思う一冊だった。
お祝いを言いたい、お話をしたい。
そう思うと、出版記念会の日が待ち遠しかった。
そこにいる誰の声も耳に届く少人数の会は、
作者を囲んで、とても穏やかで、陽気で、崩れず、うちとけていた。
会の後もしばらく、心地よい余韻が続いていた。
そして、一週間ほど後、訃報が届いた。
突然のことだった。
ご夫君との朝のウォーキングから戻られて、シャワーを浴びて、
突然、倒れて、そのまま逝かれたというのだ。
ご自宅での告別式は、つい先日のことだった出版記念会を思わせた。
本人がここにいたら喜ぶような集まりをと、ご夫君が仰った。
ああ、そうだったなと。
1枚1枚と写真を繰りながら、一気に甦ってきた。
儚い、という言葉を使うことさえできなかったあの日。
この本は形見だね、と仲間たちと言い合った。
書庫の書棚の上の方に納めているあの本を、もう一度読みたくなってきた。