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ぱんせどフランセ

思いつくまま、たまに仕事のことなども。

福祉の現場に生きる人たちへのインタビューをもとに書いた
ルポルタージュ「日々を織る」も連載しています。
<コラム>障害の両サイド|日々を織る
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    ☆「日々を織る」 福祉の現場に生きる人たちのルポルタージュ ☆

     

     

    <コラム> 障害の両サイド

      

    今年、2018年の2月のはじめに、

    注意集中や落ち着きに困難のある

    ADHA:注意欠如多動性障害や、

    対人関係やコミュニケーションに関する困難のある

    ASD:自閉症スペクトラムといった

    発達障害の当事者の話を聞く機会があった。

     

    たとえば、子どものころ、

    どうしてそんなに物を

    忘れたり失くしたりするのか、

    いったいどうして

    そんなに注意力に欠けているのかと

    親や教師に叱られるたび、

    それが分かれば自分でも

    もっとちゃんとできていると思っていたこと。

     

    失敗について、

    どうしてそうなのだと言われて

    自分なりに理由を考え説明を始めたら、

    口答えをするなとよけいに叱られ、

    聞かれたから話して

    どうしてまた叱られるのか困惑したこと。

    どうして?という言葉には

    理由を糺すほか、叱責の意味もあることを

    少しずつ理解して覚えていったこと。

     

    そんな困惑を繰り返しながら

    人との接し方や

    コミュニケーションのとり方を

    他の人よりも時間をかけて

    少しずつ身につけてきたと。

     

    発達障害の当事者というその人の体験は、

    自分にも身に覚えのあることだと思い、

    それが、何かしらの障害と名づけられるか

    下手や苦手と言われるかの境目は、

    いったいどこにあるのだろうかと思った。

     

    ちょっと話を聞いて、

    そういう出来事は自分だって経験している、

    身に覚えがあるからといって、

    相手の困りごとや悩みの高を

    小さく見積もってはならない。

    違いを垣根にしないことと

    違いを小さく見積もることは、きっと違う。

     

    当時者や当時者の家族、福祉関係者、研究者と、

    発達障害についての理解を促す講演が続くなか、

    1本の動画が流れた。

    聴覚過敏をテーマにしているものだった。

     

    たとえば食器が触れ合う音や

    水を流す音、ドアの開け閉めの音、

    車のクラクション、子どもの声など、

    その人それぞれに

    特定の音声や、予期せぬ音に

    ひどく敏感に反応する症状だそうで、

    動画を見ている人に、

    その音の世界を疑似体験させる場面があった。

     

    動画に出演する当時者の一人が

    車の行き交う交差点で、

    過剰に聞こえる音を遮断するためにつけていた

    音楽プレイヤーのイヤホンを外したとたん、

    会場にいた私たちの耳に

    ひっきりなしに通る車の音をはじめ

    町の騒音が大音量で飛び込んで来た。

    そしてその当時者である女性と一緒にいた人が

    彼女に話しかけた時、

    話しかけた人の話し声が背景の騒音に

    みごとに溶け込んで聞き取れなかった。

     

    これが、その時、私たちが疑似体験した

    人の声と周囲の音とを聞き分けることが

    難しい当時者の聴覚の状態だった。

     

    聴覚過敏という障害のない私たちは、

    普段、雑多な音声の中で人の声をキャッチする。

    さらに、大勢の人の声がある場合、

    自分が意識を向けた人の声をキャッチしようとする。

    そういう風に、無意識のうちに

    自分が聞こうとする人の声と周囲の声を

    聞き分けている。

    ところが発達障害の症状の一つとして

    この人の声を切り分けて聞き取りづらいということが

    起こるのだそうだ。

     

    イヤホンなどで耳を塞いでおかなければ

    頭の中をかき回されるような音量での騒音。

    そしてそれらの音と渾然一体となって

    入ってくる人の声。

    頭の中をザラザラジャギジャギと掻き回す騒音。

    そこに音の断片として紛れ込んだ人の声は

    言葉としての意味をなさない。

    不快さと、もどかしさ、苛立たしさ。

     

    そうか、こんな風に聞こえているのかと

    ほんの数分の体験だったが、

    その不便さへの想像力が芽生えた。

    そして、いかに今まで、

    障害についての想像力が希薄であったかに気づいた。

     

    障害は、生活の中にある環境と人との間の不具合。

    その不具合がどれほど生きづらさに結びついていくのかが

    障害の度合いなんだろうと。

    そして、その不具合を自分の力で何とかできずに

    困っている人を支援していくのが福祉の役割の一つ。

    このルポルタージュ「日々を織る」を書き始めて

    障害についてそんな風に考えてきた。

    いわば、障害は当時者と環境との間にあるもの。

    そんな風に考えてきた。

     

    それが、この度、この疑似体験のおかげで

    当時者の感覚への想像力が芽生えた瞬間、

    自分の側にある障害について思いが至った。

     

    相手がどんな風に困っているのか。

    そこへの想像力の欠如は、

    明らかに理解への障害になる。

    障害者という言葉に、

    つい障害は当時者と環境との間にあるものと

    思いこんできたけれど、

    実は、こちら側の通り道にも障害はあったのだ。

     

    障害は、両サイドにある。

    そのことに、やっと、気づいた。

     

    「この仕事を始めてから、

     “ふつう”って何やろ、と思うようになりました。

     自分にとっての“ふつう”と相手の“ふつう”は違う。

     “ふつう”って人それぞれなんやなと」

     

    これは、このルポルタージュに登場していただいた一人目の

    坪井絵理子さんから聞いた言葉だ。

    その話をしていた時、なるほどな、と思っていたが、

    この『障害は、両サイドにある』と気づいた時、

    思わず、膝を打つような感覚で

    坪井さんのこの言葉を思い出した。

     

    分かることへの困難。

    その理由は、言葉にして伝えることが難しい

    相手の側にだけあるのではなく、

    言葉だけで伝えきれない相手の側にだけあるのではなく、

    受けとめる側にもある。

     

    障害は、両サイドにある。

    そしてその両サイドの片側に自分が立っている。

    このことに思いが至ったことで

    心というか頭というか、

    自分のあり方の何かが、やわらかくなった気がする。

     

     

               筆者 井上 昌子(フランセ)

     

     

                次回 「居場所をつむぐ。 Vol.1」へ

     

     

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    記事の一覧 |「日々を織る」
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      「日々を織る」福祉の現場に生きる人たちのルポルタージュ

       

       

      **********************************

       

      福祉は特別なものではない。

      いろいろな人が、いろいろなまま、日々の暮らしを過ごしていけるよう。

      普段の生活の暮らしやすさを整えていくものだと。

      そういうことを感じさせてくれる、

      福祉の現場で生きる人たちの物語です。

       

      **********************************

       

       

      Person 01  坪井 絵理子さん 「繋がるために。」

       

       

      Person 02  北井 陽子さん    「囲いを打ち破る。」

       

       

      Person 03  永棟 真子さん 「選択肢を増やし、世界を広げる。」

       

       

      ☆ Person 04  鈴木 貴子さん    「居場所をつむぐ。」  ただいま連載中

       

       

      ☆ コラム 「はじめに」

       

            「「障害」か「障がい」か」

       

            「普段着の福祉」

       

            「障害の両サイド」

       

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      <コラム>普段着の福祉|「日々を織る」
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        ☆「日々を織る」 福祉の現場に生きる人たちのルポルタージュ ☆

         

        <コラム> 普段着の福祉

         

         

        親が、舗道の敷石の、ほんの小さな段差につまづいて転んだ、

        話す時、ゆっくり大きな声を心がけるようになった、

        手渡すメモの字を、濃く大きく記すようになった、

        台所の高い棚から低い棚へとモノを置き替えた、

        親が使う瓶の蓋を、ほんの少し緩めに締めておくようになった。

         

        日常生活に、小さな変化が起こってくる。

        気がついたら、

        自分の親もずいぶんと年をとっていたのだ。

         

        40代、50代、60代の友人たちとの会話の端に

        のぼるようになった、

        高齢化する親と生きていくという

        抗いようのない現実。

         

        ほんの何日間か、

        身体のどこかに痛みや不調を訴えて

        寝込んだ親の世話をしているだけで

        日々の暮らしにかかる負担が増える。

        時間的に、体力的に、やがて精神的に。

        こういう状況が、

        日常として継続したらどうなるのだろうか。

        そう、日常として継続したらどうなるのだろうか。

         

        そのいつか来るだろう現実を想像すると、

        大変だろうなあという思いと、

        やっていけるだろうかという不安が、

        胸をよぎる。

         

        そんな不安に、支えになりそうな言葉があった。

        福祉の現場で支援を続ける人たちに聞いたかけ声、

        「一人にしない、一人にならない」。

        そのかけ声が意味するところ、

        そのかけ声のもと重ねられている

        日々のあり方を知りたいと、

        誰も「一人にしない、一人にならない」環境づくりに

        力を尽くしている人たちの話に耳を傾け

        書き始めたルポルタージュ「日々を織る」

         

        福祉の現場で支援を続ける人たちへの

        インタビューを通して、

        書くことを通して、

        少しずつ自分のなかに、自分なりに思う

        福祉の姿が見えてきた。

         

        それは、

        普段の暮らしの中で感じる生きづらさを

        軽減していく、

        その人その人の個性や体力に合わせて

        日々の生活を、すこしでも負担なく過ごせるように、

        暮らしていく環境と人との間の不具合を整えていく。

        そういうことだと思うようになった。

         

        たとえば、家の中の小さな改造。

        親の高齢化に合わせて、

        家の床からできるかぎり段差を無くしたり、

        段差の近くには手すりをつけたり。

        そうやって転倒を防ぐ。

         

        実際、転倒による骨折から

        寝たきりの生活がはじまったり、

        骨折は完治したものの、治療中の足腰の弱りから

        歩く力が衰えたり、

        その影響で認知力が低下したり。

        そういうことが、友人知人の間でも起こっている。

         

        ちょっと転んだ。

        たったそれだけのことが、

        その後の、本人と家族の生活を変えてしまう。

        そうなるきっかけを減らしていく、

        そして、そうなった時、その生活の負担を、

        少しでも軽くしようとするのが

        福祉というものなのだと思うようになった。

         

        小さな段差を平らかにしていく。

        福祉というものの実体というか、

        具体的な姿というかは、

        そういう暮らしの中の細かなところにある。

        そう考える時、決まって思い出すことがある。

         

        イギリス、フランス、スイスの町を

        一人で気ままに歩き回る旅をしていた

        20代前半の、ずいぶん昔のこと。

        路面電車やバスの停留所で、

        車椅子の人と一緒に並ぶことが珍しくなかった。

        そのほとんどの人が付き添いなしの単身で、

        乗り物の到着を待っていた。

         

        自分より先にいた人の顔を覚えておいて

        その人たちを待って乗りさえすれば、

        もうそれで待っていた順番どおりなのだから、

        わざわざ列を作らなくてもいいのだという

        自由なカタチの人の群れ。

        到着した乗り物に、一人また一人と乗り込んでいく。

        車椅子の人も、その人の流れの中で自然に

        乗り物に乗り込んでいく。

        扉が自動で開くと同時に

        そこから路面へとスロープが降りてくるので、

        何の滞りもないのだ。

         

        運転手や車掌がスロープを作る板を持って

        乗り降りを手伝うこともなく、

        車椅子の人も、他の乗客と同じように

        乗り降りをする光景。

        最初の滞在先のイギリスの郊外の町で

        始めて見たその光景は、私の目に新鮮だった。

        その日、イギリスでの数週間、

        滞在していた家の人にそのことを話したら

        こんな言葉が返ってきた。

         

        「一人で乗り降りできるように整備しておけば、

         車椅子の人だって、自分で出かけられる。

         いちいち誰かにお願いしたり、

         礼を言ったりしなくても、一人で行動できる」

         

        一人で自由に行動できるから、

        人は、行動が億劫にならない、と、

        その後、そんな風にその人との会話が

        進んでいったように覚えている。

         

        車椅子、乳母車、自転車。

        車体と路面の大きな段差をなくすことで

        お年寄りも子どもも乗り降りがしやすい。

        色々な人が、自由に、自分で行動できる。

        あの自動スロープは、皆が便利になるものなのだと、

        そんな風にも話が進んでいったとも覚えている。

         

        これが、私にとって、福祉という考えとの

        始めての出会いだったように思う。

         

        誰もが、自分の意思と希望にそって

        自由に、自分一人で、行動することが叶う。

        その理想に向けて、環境を整えていく。

        このルポルタージュを書きながら思う福祉の姿が

        あの路面電車やバス乗り場での

        一場面にあったのだと思う。

         

        もう少し、旅の途中の記憶を広げれば

        ショッピングモールの入り口で、

        車椅子の男性が「お先にどうぞ」 と笑顔で

        私に道を譲ってくれたこともあった。

        レディファーストのその親切を、私は

        素直に気もちよく、受け取った。

         

        “After you.”

        “Thank you.”

        “Not at all.”

        “Have a nice day.”

        “You too.”

         

        ショッピングモールの入り口での、

        あの和やかなやりとり。

        道を譲ってくれた男性にとっても、

        道を譲ってもらった私にとっても、

        さりげなく、ささやかで、

        でもその後の数時間、その日1日を

        気分よくしてくれた短い出来事。

         

        誰かに、いちいちお願いしたり、

        礼を言ったりせずに、自分一人で行動できる。

        その自由が、あの時を作ってくれたのだ。

         

        その後、日本に戻ってしばらく後、

        友人と2人で道を歩いていて、

        地下鉄の出入り口に設えたエレベーターの前で

        困った様子の車椅子の男性に出会った。

        地下の通路へ続くエレベーターはあるのだが、

        エレベーターを呼ぶ押しボタンが

        車椅子に座ったままで届く位置についていなかったのだ。

         

        通りすがりの私たちに、男性は

        「すみません、ボタンを押してもらえますか」と頼み、

        「ありがとうございました」と礼を言って、

        そのエレベーターを使った。

        エレベーターを降りる時は大丈夫だろうかと、

        3人でエレベーター内のボタンの位置を確認し、

        大丈夫ですねと言った時にも、

        ありがとうございます、手間をかけて申し訳ないと

        男性は、頭を下げた。

         

        車椅子の男性に、ドアの入り口で

        お先にどうぞと道を譲ってもらった

        あの小さな出来事と真反対の居心地の悪さだった。

        そして、その時私には、

        車椅子のピクトグラフ(絵文字)を掲げた

        あのエレベーターは、

        車椅子の人と一緒にいる誰かのためのものに思えた。

        車椅子に乗った人が、

        自分一人で自由に乗り降りする姿を想像してではなく、

        付き添う誰かがボタンを押している姿を考えて

        作られたボタンに思えた。

         

        ほんの数センチ。

        あのボタンの位置のほんの数センチの違いが、

        誰もが、可能な限り、

        自分の意思と、自分の希望にそって、

        自分一人で行動できる環境で、

        人って、暮らしていきたいよねという考えが、

        どれくらい人々の普段の生活の中にあるかどうかの

        違いではないだろうか。

         

        その、細やかなことを積み重ねていくことの

        大変さは分かる。

        大きなビジョンを実現するための細部の積み重ねが

        どれほどエネルギーを要することかは、

        仕事を続けてきた中で、いやというほど味わってもいる。

         

        だから、環境と人との間にある不具合を調整し、

        生活の中の生きづらさを軽減しようと

        福祉の現場で支援を続ける人たちの

        姿や言葉が、胸に、腹に響いてくるのだ。

         

        小さな段差を平らにしていく。

        そんな身近で細やかな環境の調整が、

        大河の一滴のような。

        福祉を、暮らしているすべての人を包む

        大河と喩えるならば、その細やかな環境の調整が、

        大河の一滴のように思う。

        その小さな一滴一滴がなければ、

        大河はけして流れることはない。

         

        このルポルタージュを書きながら、

        福祉は、普段の暮らしと一続きの道の先で、

        重ねていく日々を見守ってくれているようなものだと

        感じるようになった。

         

        小さな段差を平らかにする。

        そして、その平らかさに誰も気づかず、

        皆が何気なく、そこを通り過ぎていく。

        あの、車椅子の男性に道を譲ってもらった時のような、

        軽やかさと、心地よさをもって。

         

        何がコワいって、

        親が転んで骨折するのが、ほんとうにコワい。

        高齢化する親と生きている

        40代、50代、60代の友だちと会話で、

        これもよく出る言葉。

        それが自分の日常に、普段の暮らしに、

        どんな影響を及ぼすかを考えて、

        軽く言いながらも、皆けっこう本気で怖がっている。

         

        福祉が、特別なことではなく、

        普段着みたいに、自分の暮らしの中にあるって

        なんて心強いことだろうと、今、そう思う。

         

         

        筆者 井上昌子(フランセ)

         

         

                次回  「選択肢を増やし、世界を広げる Vol.1」

         

         

        hihi wo oru

         

         

        JUGEMテーマ:社会福祉 

        | ☆ルポルタージュ「日々を織る」コラム/記事一覧 | 07:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
        <コラム>「障害」か「障がい」か。|「日々を織る」
        0

           

          ☆「日々を織る」福祉の現場に生きる人たちのルポルタージュ☆

           

           

          <コラム>「障害」か「障がい」か。|「日々を織る」

           

           

          福祉の現場で支援の仕事に就く人たちへの

          インタビューをもとしにした

          このルポルタージュ『日々を織る』には、

          「しょうがい」という言葉が出てきます。

          たびたび、登場します。

           

          この「しょうがい」という言葉を

          「障害」と記すか

          「障がい」と記すか。

           

          原稿を書きながら、いつも考え、迷います。

           

          もともと、私自身は「障害」と記す方でした。

          「障がい」とあえて

          「害」の字を“ひらがな”にすることは

          文字が含んだ「害」という概念に

          ことさらに気を取られ

          縛られているような気がして、

          それはそれで、とまどいがあったからです

           

          そして人を傷つける言葉というのは

          何だろうかと考えました。

           

          日本語では身体的な「しょうがい」を

          言い表す言葉に、とても気を使います。

          いわゆる放送コードにひっかかる言葉が

          数々あります。

           

          その言葉を読んだり聞いたりして

          傷つく人や

          いやな気もちになる人がいるのなら、

          たしかに、その言葉は使うべきではありません。

           

          ただ、その時、

          問題の本質は、

          その言葉そのものにではなく

          その言葉に与えられた概念、

          その概念を与えてしまった人の思考にこそある。

          そう思うのです。

           

          そして、言葉のカタチ、字面や音を整えて

          配慮や思いやり、心づかいを

          果たしたような気になって、

          本質に向き合うことを忘れる。

          言葉に、問題を押しつけて、

          問題の本質から目を背ける。

           

          そういうことをしてはいけない、

          しない自分であろうという思いが、

          「障害」と記す理由の一つでした。

           

          とは言いながら、やはり、

          それでいいのだと言い切るだけの自信はなく、

          それでいいのだろうかという迷いは消えませんでした。

           

          クライアントのある仕事では

          当然のこととしてクライアントの考え方に従いました。

          クライアントの考えや思いを伝えるための

          文であり、言葉ですから。

           

          すると「障がい」とひらがなの方が多くて、

          やはり「害」という文字を使わない方が

          より多くの人の心に添うのだろうか

          いやな思いをする人が少ないのだろうか、と思うようになり、

          いつしか「障がい」と記すようになっていきました。

          だけど、やっぱり、迷いは残ったまま。

           

          そんななか、

          福祉の現場で活動している施設や団体で

          「障害」と記しているということを知りました。

          すべての施設や団体がそうであるのかどうかは

          定かではありませんが、

          私が出会った福祉施設や団体はそうでした。

           

          どうして「障害」という表記を用いているのか、

          その理由はこうでした。

           

          障害というのは、

          人とその人の環境との間にあるもの。

          だから「障害」とそのまま記す。

          そして「障害」は

          人と環境の間にあるものであって、

          人に属しているのではない。

          「障害」はある、のであって

          「障害」をもつ、のではない。

          「障害者」は

          「障害がある人」であって

          「障害をもつ人」ではない。

           

          こう理由を教えられた時、

          曲がりくねった細い夜道の先に

          月明かりの落ちる野原を見つけたような

          心持ちになりました。

           

          なるほど、そうかと。

           

          それ以来、私はまた、個人的な文章では

          「障がい」ではなく、

          「障害」と記すようになりました。

           

          なったのですが、

          なって少し経ってから、

          あるセミナーの講師の一人として登場した

          障害のあるお子さんのいるタレントの方が、

          「障害」という文字を見ると

          ドキッとして、少し胸が痛むと仰いました。

           

          「害」という文字のイメージがあまりに強くて、

          自分の子どもに用いられる言葉に

          その文字の入っていることに、よい気もちがしないと。

           

          ここで、また、迷いました。

          そうか、やはり現実に、傷つく人がいるのだと。

          それならば、概念だとかいう理屈の前に、

          傷つく人のことを考えるべきじゃないのかと、

          「障がい」と記すようになりました。

           

          この「日々を織る」の第1話、

          「繋がるために」でも

          「障がい」と記しています。

           

          そして、第2話の物語を書き始めた時、

          Twitterで、障害のある当事者のどなたかの、

          「障がい」ではなく「障害」と記して欲しい。

          「障害」と表記を統一してもらった方が、

          オンラインの検索が容易いのだというような

          呟きを目にしました。

           

          気になって、ちょっと

          インターネット上で発言されている方の

          いくつかの意見をあたってみたところ、

          当事者は「障害」「障害者」と記すことが

          多いというような情報に触れました。

           

          それが、すべての意見ではないと思います。

          どれが正解という意見もないのが

          本当のところだと思います。

          でも、今の私が出会った意見は

          そういうことでした。

          そして、より適当なあり方は、

          当事者の心に沿うことだと思いました。

           

          だから、この「日々を織る」での

          これからの原稿では

          「障害」「障害者」と記していこうと思います。

           

          「障害」は、人がもつものではなく、

          「障害」は、人と環境の間にあるものだ。

           

          そして、その「障害」。

          人と環境の不具合を調整していくのが

          福祉の仕事であって、社会福祉のあり方だという

          今の自分が得た考えを言葉に託して

          「障害」という表記を選びます。

           

          高齢化していく親と生きていくなかで、

          自分自身も歳を重ねていくなかで、

          それまで感じなかった「障害」に、

          生活をする上での環境との不具合に、

          どんな向き合っていくのだろう。

           

          その水先案内として、

          「誰も一人にしない、一人にならない」

          環境をつくろうと、

          日々、課題にぶつかり、力を尽くしている

          福祉の現場に生きる人たちに

          話を聞こうと書き始めたこのルポルタージュには、

          それが合っているように思うから。

          少なくとも、今の私には、そう思えるから。

           

          この後の

          第2話の原稿から、「障害」とします。

          この前の

          第1話の原稿は、「障がい」のままにします。

           

          その、右往左往、紆余曲折そのものも、

          自分の考えがどんな風に変わっていくのかの記録であり

          自分の気もちの記憶であると思うので。

           

           

          筆者 井上昌子(フランセ)

           

           

           

                           次回 、囲いを打ち破る。Vol.1 へ

           

          hihi wo oru

           

           

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          | ☆ルポルタージュ「日々を織る」コラム/記事一覧 | 07:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
          「日々を織る」福祉の現場に生きる人たちのルポルタージュ
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            ☆「日々を織る」  福祉の現場に生きる人たちのルポルタージュ☆

             

             

            はじめに

             

            介護のこと

            地域医療や施設のこと

            高齢になっていく親と生きるということ

            そして

            ひたひたと近づいている自分の老いについて…。

             

            自分と友人の大半が

            40代、50代、60代になってから

            そういう話題が多くなってきました。

            食事を、お茶を、お酒を楽しみながら、

            最近観た映画のこと

            新しく買ったシャツのこと

            旬の野菜をつかったおすすめレシピなど、

            たわいない話の端に、すっと顔を出すのです。

             

            とりとめのない話のなかに、

            すっと顔を出しては、さっと消え、また顔を出す。

            それはきっと、片時も離れることのない考え…

            自分ではどうしようもない現実と気もち。

            そんな話のなかで、

            友だちとしみじみとうなずき合ったことがあります。

             

            もしも、扉を閉めて、自分一人で

            この、親の介護と向き合うことになったら

            どうなるだろうと。

             

            いろんなことが

            以前のようにはできなくなっていく親の姿が、

            今、40代、50代の自分の

            そう遠くない将来の姿と重なって見えて、心をよぎる、

            体や脳の健康についての不安や問題を

            どう自分自身で抱えていけばいいのだろうと。

             

            避けることも、逃げることも、退けることも

            できない現実がつきつけてくるだろう

            様々な問題を思うと怖い。

             

            そしてさらに、

             

            どうすればいいんだ、どうにかしなければ、

            どうすればいいんだ、どうにかしなければ、

            どうすればいいんだ、どうにかしなければ、

             

            どうしようもない、でも

             

            どうにかしなければ、どうすればいいんだ、

            どうにかしなければ、どうすればいいんだ、

            どうにかしなければ、どうすればいいんだ、

             

            という袋小路の堂々巡りで

            疲れ、弱り、擦り切れていく自分の姿を

            想像するのもとても怖い。

             

            そんな気もちでいっぱいになりかけた時、

            ふと思い出した言葉がありました。

             

            「一人にしない。一人にならない。」

             

            これは、ある福祉施設の職員さんたちが

            合い言葉のように口にしている言葉です。

             

            利用者さんを一人にしない。

            同じく、職員も一人にしない。

            そして

            職員自身が一人にならない。

             

            それまで、第3者として聞いていた言葉が

            突然、自分ごととして心に浮かんできました。

             

            「一人にしない。一人にならない。」

             

            シンプルなこの言葉に込められた意味を

            あらためて考えました。

             

            一人にしない。

             

            ほどよい距離で見守り続け

            必要とされる時

            けして過ぎることなく十分な助けになる。

            そんな風に人の力になることは至難の業。

            一人にしないことと、

            一人でいる機会を奪うことは、まったく別の話。

            人を助けるって、なんて難しいんだろうかと、

            少し前、とある仕事を通じて感じたばかりです。

             

            そして、一人にならない。

             

            これは、一人にしないことよりも、

            もっと難しいと思うのです。

            助けを求めるには、

            助けてくださいと声を上げるには、

            強さが必要だと思うのです。

             

            誰かの力を借りるには、まず、自分を、

            自分で自分を打ちのめすほど、まじまじと

            自分の現実を見つめること。

            そして、それを認めて、受け容れて、

            自分の弱さ、足りなさを、いわばさらけ出して

            助けてくださいと声をあげる。

            それには、やはり強さが必要だと。

             

            そして、その強さには、

            助けてくださいと声をあげても大丈夫だと

            信じられる「人」と「環境」が不可欠なのだと思います。

             

            一人にしない、一人にならない。

             

            シンプルなこの言葉の大きさ、大切さを

            自分ごととして感じた時、

            このシンプルな言葉を実現しようとしている人たち、

            環境と人との不具合を調整する役割を果たすため、

            人と人を、人と地域と、地域と地域を繋げようと

            日々、福祉の現場で奔走している人たちのことを、

            あらためて思いました。

            そして、彼ら彼女たちに、話を聞きたいと思いました。

             

            障がい者を支援する福祉施設で、日々、

            「一人にしない、一人にならない」ことの大切さを痛感し、

            道のりの険しさ、遠さに直面しても、

            焦らず、ひるまず、実現に向けて力を尽くす人たちの

            思いや姿に触れることが、

            高齢になっていく親と生きていくということ、

            親の姿をなぞるように

            高齢になっていく自分を受けいれていくということの、

            助けになるのではないかと。

             

            こんな私の思いを受けいれ、

            インタビューに応じてくれた福祉の人たちの

            思いや姿を書いたルポルタージュを、

            毎週木曜日、このブログに掲載していきます。

            お時間のある時、ぜひ、読みに立ち寄っていただけたら

            とてもとても嬉しいです。

             

             

            筆者 井上昌子(フランセ)

             

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