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ぱんせどフランセ

思いつくまま、たまに仕事のことなども。

福祉の現場に生きる人たちへのインタビューをもとに書いた
ルポルタージュ「日々を織る」も連載しています。

ブランディングについての記事は、フランセのWebに書き始めました。
消費を破壊ではなく創造へと繋いでいく、波佐見からのテラゾ
0

    消費という行為はセルフプロデュースだ。

    何を買い、どう使っていくか、

    その行為、過程のすべては自己表現だ。

    たとえばフェアトレードによる商品を選ぶというような

    日常生活のなかにもある意思表示なのだ。

    これは消費者として、

    カスタマーに向けての情報発信に携わる職業人として、

    ずっと根底にある考えの一つだ。

     

    先日、この考えを共にできる人たちに出会った。

    廃棄処分となった波佐見焼きのアップサイクルに取り組んでいる女性たちだ。

    彼女たちは、今年の夏、

    廃材となった波佐見焼きをテラゾとしてアップサイクルする

    プロジェクト”Utte”を立ち上げ、商品化に取り組んでおられる。

    プロジェクトチームのメンバーは4人。

    波佐見焼きの生地づくりと形成、絵付けに従事している

    裏邊彩子さんと裏邊恵さん。

    長崎県窯業試験場の研究員を務める石原靖世さん。

    そして、このプロジェクトの発起人で、

    オランダを拠点に活動するインテリアデザイナー

    本村らん子さん、だ。

     

    テラゾは500年以上前にイタリアで生まれた人工大理石。

    砕いた大理石などの石材を

    白色のコンクリートに混ぜて固めて表面を研磨した資材で、

    艶やかで滑らかな質感はまさに人工大理石だ。

    彼女たちのプロジェクト”Utte”は

    廃材となった波佐見焼きを活用して、

    波佐見生まれのテラゾを生むというものだ。

     

    波佐見焼きは慶長4(1599)年、長崎県の波佐見の村で生まれた。

    村で採掘した陶石を生地にして大きな登り窯で焼く波佐見焼きは

    大量生産が可能な上に丈夫で、当時、高級品であった磁器を庶民に普及させた。

     

    江戸時代、摂津の国(大阪)で、

    淀川を往来する大型の船を相手に煮売りの小船が

    「飯食らわんか」「酒食らわんか」と

    売り声をあげて食べ物や飲み物を売っていた。

    その売り声から、この小舟を”食らわんか船”と、

    そこで使う器を”食らわんか碗”と呼ぶようになった。

    この”食らわんか碗”には、揺れる船でも安定する厚手で重心が低い陶磁器である

    長崎の波佐見焼き、愛知の砥部焼、大阪の古曽部焼が使われた。

    そして割れにくく、素朴な絵付けを施した波佐見焼きは人々に好まれ、

    庶民にも手の届く磁器として普及していった。

    こうして波佐見焼きは、江戸時代から

    日常生活のなかの磁器、食卓の器として愛され続け、

    今も私たちの暮らしのなかに息づいている。

     

    この波佐見焼きを新しいプロダクトとして

    アップサイクルしようとしているのが、

    彼女たちの”Utte"プロジェクトだ。

     

    日常使いの磁器として愛される波佐見焼きは大量生産される。

    その生産量に応じて欠品の数も少なくない。

    ヒビが入っている、成形や絵付けに不具合があるなどではなく、

    たとえば陶石の成分である鉄の色が小さなシミのように表れても

    商社から返品されるものもある。

    そして、欠品となった焼き物はすべて廃棄される。

    釉薬をかけた磁器は土に返すことはできない。

    山から採掘する陶石や大量の水。

    生産過程で使った資源は、そのままゴミとして棄てられていく。

    陶石を抱く山は採掘のごとに痩せていき、

    廃棄処理場となった山では地盤沈下が起きている。

     

    自然の恵みをいただいて物をつくる自分たちの行為が、自然を傷めている。

    そんな思いを胸のどこかに抱えながら、職人たちは商品をつくり続けている。

    陶石を採掘し、石を砕き、生地をつくり、成形し、

    絵付けをし、釉薬をかけ、窯に入れ、焼き上げる。

    自分たちが焼いた器を喜ぶ人たちがあって、その仕事は喜びを与えられる。

    使われることなく、誰の喜びも受けることなく廃棄されていく器が自然を傷めるとき、

    物づくりを愛し、物づくりに生きる人たちの心も痛んでいる。

    そして波佐見焼きの職人たちの胸中には将来への不安もよぎっている。

    山から採れる陶石は限りある資源だ。

    それをただ廃棄物に変えていくサイクルをこのまま続けていっていいのか。

    数百年の歴史をもつ波佐見の磁器づくりは産業として継続していけるのか。

     

    そんな思いのなかから生まれたのが、

    廃材となった波佐見焼きをアップサイクルするテラゾだ。

    粉砕した陶片は、呉須(ゴス)と呼ばれる伝統的な染料の藍色、

    若い感性による絵付けのカラフルな色、

    そして成形に用いる石膏型の白と、色彩豊かだ。

    研磨した面に表れる色模様は、

    一度、磁器になった温かみを帯びて、やわらかい。

     

    hasami_terazo

     

    この波佐見生まれのテラゾを、

    どう人の暮らしのなかに生かしていくのか。

    これから、テラゾタイルをはじめ、

    家具や雑貨などのプロダクトとして展開していく。

    食卓から住空間全体へ、

    アップサイクルによって波佐見焼きを

    どんな風に人の暮らしのなかに届けていくのか。

    生まれたばかりのプロジェクト”Utte”は可能性の模索中だ。

     

    そしてもう一つ、この”Utte”プロジェクトには、

    プロダクトを通じてメッセージを伝えるという願いがある。

     

    「大量生産化社会は生産者がストップすれば解決する問題ではありません。

     これは消費を促すビジネスや商社、また消費者一人一人に責任があり、

     ものを作るということ、消費するという事に、

     どれほどの意識を向けることができるのかが、

     解決方法の糸口に繋がると私は信じています」

     

    このメッセージ、この願いは、

    消費はセルフプロデュースであり、自己表現だという考えと繋がっている。

    このメッセージに記された思いを知ったとき、

    現実に起こっていること、それについて思っていることを

    淡々と話される言葉の一つひとつがなぜ浸みてきたのか、

    このプロジェクトになぜ心惹かれたのか、腑に落ちた。

     

    消費が破壊であるなら、私たちの未来はどうなるのだろう。

    「地球は子孫からの借り物」

    ずいぶんと昔、20代の頃に読んだ本で出会った言葉だ。

    著者の名前も本のタイトルも思い出せないのだが、

    この言葉だけが心に残っている。

    インターネットで調べると、

    ネイティブ・アメリカの言葉 ”We borrow it from our children.”だとあった。

     

    消費という行為は、セルフプロデュースであり自己表現である。

    自分がどんな人間でありたいのか、あろうとするのか。

    消費という行為は、自分と向き合う機会だ。

    友人にプレゼントを贈るとき、

    その人は何が好きで、何を大切にし、何を喜ぶかを考える。

    自分に向けても同じようにしてやる。

    そうして、自分が喜ぶものを選んでいく。

    現実の生活の中で、常にベストを手に入れられるわけではないが、

    選ぶことをなおざりにしないことはできる。

    選び、所有し、使い、そして破棄するところまで、

    自分で選べる限り、その選択を放棄しない。

     

    食卓の小さなお皿1枚、水を飲むグラス1個、箸1膳、箸置き1個、

    そういう細やかな物を一つひとつ選んでいく。

    そこから暮らしは変わっていく。

    どんな人がどんな風に作り、どんな風に店先まで届けられたのか。

    そういうことに、ほんの少し思いを寄せて、選んでいく。

    生活のなかの、そんな細やかな自己表現が、

    自分の暮らしを形づくっていくと同時に、

    消費者と生産者と流通者たちがフラットに繋がり、

    消費を破壊ではなく創造へと繋いでいく、

    自分たちが暮らしていきたいと思う社会や環境をつくっていく

    ひとつの糸口になるのではないだろうか。

     

    そんなことを考えさせてくれた”Utte”というプロジェクト。

    子孫に借りている地球に蒔いたその一粒の種が、

    豊かに実っている明日を想う。

     

    mountains of Hasami

    波佐見の山 (写真提供:"Utte" プロジェクトチーム)

     

    instagram : utte_hasami

     

     

     

     

    参考Website

    ◎波佐見陶磁器工業共同組合  

       http://www.hasamiyaki.or.jp/porserin/index.html

    ◎Wikipedia

     

     

     

    JUGEMテーマ:エッセイ

    | 思索の記憶 | 13:23 | comments(0) | - |
    理解できぬまま生きていくもの…
    0

      理解するというのはほんとうに難しい。

      自分の知識や経験、そして想像力を超えての理解はできない。

      年月を経て視点が増え、視野が広がり、視座が変化して、

      同じひとつ事柄についての理解は変わる。

      ああ、そうだったのか、そういうことだったのかと、

      あらためて分かることがある。

      それについて何も考えていないような

      何年も前のできごとについて、

      不意に、ああ、そうだったのかと気づくのだ。

       

      今朝も、そうだった。

      1日に1フレーズ、マザーテレサの言葉を記した本を読んでいて、

      ああ、そういうことだったのかと思ったのだ。

      その文章を下に記す。

       

      In Melbourne, I visited an old man nobody seemed to know existed.

      I saw his room; it was a terrible state.

      I wanted to clean it, but he kept on saying : ‘I'm all right.’

      I didn't say a word, yet in the end he allowed me to clean his room.

      There was in that room a beautiful lamp, covered for many years with dust.

      I asked him : Why do you not light the lamp?

      ‘For whom?’ he said. ‘No one comes to me.’

      I said : Will you light the lamp if a Sister comes to see you?

      He said : ‘Yes, if I hear a human voice, I will do it.’

      The other day, he sent me word :

      ‘Tell my friend that the light she has lighted in my life is still burning.’

      See what a little act can do?

        出典:"THE JOY IN LOVING"

                   ~ A Guide to Daily Living with MOTHER TERESA ~

            ©Jaya Chaliha and Edward Le Joly

       

      下に記すほどの意味に読んだ。

      多少の意訳はあるが、こんなことだと思う。

       

      メルボルンで、誰からも気づかれず

      一人ひっそり暮らしているような老人を訪ねました。

      彼の部屋はひどい有様でした。

      掃除をしたいと思いましたが、

      彼は「これでいいのです」と言うばかりでした。

      私はもうそれについて黙り、彼とともに過ごしました。

      するとやがて、彼の方から私が部屋の掃除をすることを認めました。

      部屋には美しいランプが、きっと何年もの間の埃を被ったままでありました。

      「どうして、このランプを灯さないのですか?」と訊ねると、

      「誰のために?」と彼は言いました「誰も私を訪ねてなどこないのに」。

      「もし、私のシスターがあなたに会いにきたら、ランプを灯しますか?」と問うと、

      「ええ、人の声が聞こえれば、灯しますよ」と返ってきました。

      ある日、彼からの伝言が届きました。

      「わたしの友人に伝えてください、

       彼女が私の人生に灯した灯りはまだ燃えつづけています、と」。

      これが、ささやかな行いによって何ができるかですよ。

       

       

      世を棄てて、己を棄てた人への、

      マザーテレサが説くささやかな行いの中にある愛への、

      自分自身の中にある孤独への、

      自分の中にどれだけの愛があるのかへの、

      胸に浮かぶ様々な思いを見つめていて、あることをふと思い出した。

      仕事を通して出会った福祉施設での見聞だ。

       

      そこは知的障害者の入所施設だった。

      大きくとった窓からは冬でも陽光が射し込み、

      季節ごとに花を咲かせて葉を色づかせる木々に囲まれた

      明るく静かな空間。

      利用者の大半が高齢の女性ということで

      ゆったりと穏やかな空気が流れていた。

      そのゆったり穏やかな空気の中にいると

      こちらの気もちもゆるりとしていくのが感じられ、

      訪ねていくのが楽しかった。

      そして、この楽しさの所以は空間だけでなく人にもあった。

       

      訪ねていくと居住者(あえてここでは利用者とは呼ばない)が

      とても嬉しそうに迎えてくれるのだ。

      食堂の椅子や、居間で寛いでいた人たちが

      珍しい顔に気づいて集まってくる。

      賑やかな話し声につられて自室で過ごしていた人たちがやってくる。

      3人が5人に、5人が10人に、10人が15人に、

      あっという間に小さな人だかりができる。

      皆さん満面の笑みで、あのね、あのねと話しかけてくれる。

      職員の方によると、

      皆さん、人が訪ねてくるのが大好きなのだそうだ。

      居住者仲間と職員たち、

      決まった顔ぶれで過ごしているので

      珍しい顔の出現は日常生活に変化をもたらす刺激らしい。

      そういうわけで、

      地域の方たちなどが施設を訪ねてくることを

      職員の方々も歓迎しておられた。

       

      なるほどそうなのか、そういうものなのかと受けとめた。

      自分が話す順番を待つ焦れったそうな顔、

      自分の部屋に手招きして

      大切にしているぬいぐるみを見せてくれる人、

      趣味の編み物を見せてくれる人、

      なかには箪笥の引き出しをあけて

      趣味のダンスの衣装を見せてくれる人もいた。

      あの何ともウキウキとした様子を思えば

      来客が彼女たちにとってどれほどの楽しみなのかを

      想像するのは難しくはなかった。

      素直に、そうか、そういうものなのかと受けとめ、

      大切なことなのだと理解した。

       

      そして今朝、このマザーテレサの言葉を読んでハッとした。

      ”ささやかな行いによってできること。”

       

      訪ねてくる人がいるということ。

      自分たちに会うために来る人がいるということ。

      その嬉しさ。

      心に灯る火のあたたかさ。

      そのことについて、やっと本当に思いが至った。

       

      ただ会いにきて、とりとめのない話をするだけ。

      ただそれだけのささやかな行いが、

      どれほどのことであるのかに、やっと思いが至った。

      職員の方たちが、施設が地域に開かれた場所であることを目指して

      日々、力を尽くしていらっしゃることへの理解がひとつ深まった。

      福祉施設の、福祉の分野の仕事に携わって数年が経つ。

      このblogに「日々を織る」というルポルタージュも書いている。

      自分なりに学び、感じてきたつもりだったが、

      こんなシンプルなことがほんとうには分かっていなかったのだ。

       

      理解するということは難しい。

      今日、分かったと思ったこのことについて、

      またいつか、1年後か3年後か、

      ハッと気づくことがあるのかもしれない。

      分かった気でいた自分を省みることもあるだろう。

      理解するというのは、ほんとうに難しいのだ。

      今日、胆に銘じるべきは、

      何ごとについても、けして分かった気にならぬようにということだ。

      自分は理解したのだと思わぬようにということだ。

      どんなことも、きっと、理解できぬままに生きていくのだなと

      自分を受けとめるということだ。

       

      JUGEMテーマ:エッセイ 

      JUGEMテーマ:社会福祉

       

      | 思索の記憶 | 13:36 | comments(0) | - |
      停滞の賜物
      0

        停滞するというのも悪いばかりではない。

        立ち止ることを強いられて生まれた時間、

        人はちょっと足跡を振り返ったりする。

        そこで、たとえばネジの弛みに気づいたり、

        詰め込みすぎた荷物が互いを崩し合ったりしているのを見つけたりする。

        日々、進むことばかりに気をとられて見過ごしている

        無理や歪みを正す機会だと、

        そんな風に説く文章を何度も読んだし、

        自分で自分に言い聞かせたことも1度や2度…どころか

        10度や20度できかない。

        しかしながら、つい忘れる。

        忘れて、トラブルで停滞する度に苛立って

        予定通りに進めることに躍起になる。

         

        つい先週の金曜日、トラブルに見舞われた。

        それまで予定通りに進めてきたことが、

        自分ではどうにも解決できない原因で止まってしまった。

        なんとか手だてはないものかと

        頭痛、胃痛、腰痛と体がもう諦め時じゃないかと

        合図を送ってくるまで粘ったけれど、

        どうしようもなかった。

        で、後はトラブルの元になっている専門に委ねて待つしかない。

        1日か2日、予定を組み直した。

        で、今、先が見えない。

        本当のほんとうに自分以外の手に委ねて

        スケジュールについてコントロール不可の状態にある。

        もうスケジュールを組み直そうとか

        この先、どうやって遅れを取り戻そうとか

        そういう考えを一切手放した。

        また動き始めたところから考えればいい。

        その時のための準備だけを淡々と進めておこう。

        そうだ、原稿を書き溜めておこうとか、

        自分の中のことだけに考えを向けることにした。

        そして自分の原稿を読み返した。

        するとどうだろう、その原稿が

        どうにも自分が書いたもののように思えなかった。

        つい数日前に自分が書いた文章を読んで

        何じゃこれ、となったのである。

        なんと言うか、小難しいのである。

         

        小難しい文章を前に、私は小難しい顔つきで腕組みをした。

        鏡を見たわけではないが、眉間にシワが寄っているのを自覚して

        いかんいかん、シワは大敵と眉間をさすったので

        きっと小難しいと顔つきという表現に大きな誤りはないだろう。

        そうして眉間のシワを伸ばしながら、

        なんで、こんな小難しい文章を書いたのかを考えた。

        で、はたと気づいた。

        自分の文章の軸を自分の外に振ってしまっていたのだ。

        他人の地図を見ながら、自分の行き先、

        自分の道筋を探していたとも言いえるだろうか。

        それでは、自分の文章が書けていなくて当たり前だ。

        あたり前田のクラッカーだ。

        ああ、また、見たこともなく、食べたこともない

        前田のクラッカーのCMのフレーズが条件反射のように出てきてしまった。

        もはや半世紀前の幻のCMのフレーズが摺り込まれている。

        これはまごうことなき祖母や母の影響である。

        一体全体、あの2人はどれくらいの頻度でこの言葉を口にしていたのだろうか。

        いや、母はまだ最近もこのフレーズを時々口にしている。

        覚えておいてほしいことを忘れるくせに、このフレーズは忘れないのだ。

        忘れず使い続けているのだ。

        恐るべし、あたり前田のクラッカー。

        あ、あたり前田のクラッカーの威力で、わたしもついうっかり、

        自分が何を書いていたかという肝心なことを忘れるところであった。

         

        もとい。

         

        自分の地図を手放して自分の文章を書く。

        そんなことができるはずがない。

        なぜ、そんな無理をしてしまったのだろうか。

        わたしは眉間から額へとシワを伸ばす指を進めながら考えた。

        そして思い至った。

        自分を大きく見せようとか賢く見せようとかいう

        邪な心が働いていたのである。

        この人物の言うことは、どうも価値がありそうだぞと

        誰かに思ってもらいたくて、

        ちょっとばかりエエカッコをしたかったのである。

        で、専門書からの引用文をいれて文章をむりやり構成したのだ。

        いや、専門書からの引用自体は悪くない、

        文章の構成を、その引用ありきでしたことが悪いのだ。

        たとえば、9cmのピンヒールの靴をもらったとする。

        それはそれは美しいフォルムと色の靴である。

        果たして自分はその靴を履いて出かけるだろうか。

        普段の自分の活動の場へ出向くだろうか。

        特別な日の特別な場ではなく、

        常日頃の自分として居る場所へ、だ。

        まあ、履いていかない。

        スニーカーか着地面がしっかりしているローヒールの靴が、

        自分自身が求める活動に向いているのを分かっている。

        その美しいハイヒールの靴を履くのは、

        それにふさわしい機会がきた時だ。

        要するに、時と場と機会を誤って履いた靴によって

        ちぐはぐな服装で、ぎこちない動きをして

        本来自分がしたかったことを何一つできていないのと同じだった。

         

        普段の自分の中にない言葉で、

        常日頃の考え、日々を織る中で生まれた思いを

        いったいどう表現しようとしていたのか。

        自分がしようとしていたことを見れば見るほど

        何じゃそれ、である。

        平たい文章でいいのである。

        そしてその専門書の引用文を

        自分の平たい文章のなかに違和感なく置いて、

        自分が言おうとすることをより明快に導けるのであれば、

        それは借り物の考えではなく正真正銘自分の考えなのだ。

        虎の威を借りようとも狐のしっぽはフサフサだ。

        狐らしく跳ね、狐らしく鳴く。

        そうしかできないし、そうでなければ生きられない。

        自分を飾ることにエネルギーを費やして

        自分自身に目を向け耳を傾けることを忘れていた。

        もしも、この停滞がなければ

        自分はあらぬ方へ向かって暴走し、迷路に突入し、

        自分の言葉を捨て、考えを見失っていたかもしれない。

        自分でスケジュールをコントロールできない状況は

        たしかに困ったことではあるのだけれど、

        方向違いに突っ走った自分の姿を想像すると

        困ったどころではない。

         

        停滞するというのも悪いばかりではない。

        この言葉を噛みしめて

        停滞の賜物に感謝しきりである。

         

         

         

        JUGEMテーマ:エッセイ

         

         

        | 思索の記憶 | 13:15 | comments(0) | - |
        犬の気もち、猫の気もち、人の気もち。
        0

           

          そうかなあ、ほんとうにそうかなあと、

          ずっと考え続けているコトというのがある。

          考え続けているといっても、

          朝から晩まで四六時中、

          1年365日、年がら年中、

          寸暇を惜しまず考え続けているわけではない。

          ただ、いつまでたっても、

          そうかなあ、ほんとうにそうなのかなあと、

          ふとした拍子に、考えるつもりもなかったのに

          ついつい考えてしまう。

           

          胸の内、というのか、頭の片隅、というのか

          ともかく、自分のなかに、そういうものが、

          整理整頓とはとんと無縁に放り込んだ引き出しがある。

          で、その引き出しのわりと上の方にある、

          けっこうな頻度で意識の上によじ上ってくる

          そうかなあ、ほんとうにそうかなあというコトの1つが、

           

          犬や猫に感情はない、という、ある人の意見。

           

          それは、どうかなあ。

           

          人間意外に感情がないというのは、

          なんと傲慢で偏った考えではあるまいか。

          その、極端な意見を、

          文字面どおりに受け取るというのは、あまりに浅い。

          それは、どうかなあ、という反射的に浮かんだ反駁を

          胸の下方へひっこめて、その言葉の真意を問うてみた。

           

          と、答えは、こうだった。

           

          犬や猫が、こう感じている、思っている、というのは

          犬や猫を見ている人間が、

          こう感じているんだろう、思っているのだろうと、

          考え、憶測している感情に過ぎない。

          だから、それは、

          人の感情であって、犬や猫の感情ではない。

           

          なるほど。

          たしかに、犬や猫が、自分の気持ちを

          はっきりと言葉にしてそう言ったわけではない。

          犬や猫のものとして語られている、その感情は、

          そうだろう、そうに違いない、そうであってほしいと思う

          人間の感情の投影なのかもしれない。

           

          友好的な態度、攻撃的な態度という

          目に見える反応から、

          その時の気もちが、こちらに対して

          ポジティブなのか、ネガティブなのか。

          そこまでは、たぶん、間違わずに汲み取れているだろう。

          が、その先の、細かな感情の読み取りは、

          その感情を受け取る側の心次第だと言える。

           

          それを、端的に、やや乱暴なまでに

          端的に言い放った言葉が、

          犬は猫に、感情はない。

           

          とまあ、相手の言わんとする

          この言葉の意味については、

          まあ、なるほどねと、一応、分かったと、消化した。

          が、この言葉、依然として、

          答えがわからないままの問いを放り込んだ引き出しに

          居座っている。

           

          何故か。

           

          その、感情の投影を言うのなら、

          人と人の間だって、同じことではないか。

          その思索でものを言うのなら、

          人の感情だって、曖昧なものだ。

           

          たしかに、人は言葉で自分の感情を伝える。

          相手の言葉を頼りに、相手の感情を知ることができる。

          相手の言葉を辿って、相手の気もちを分かることができる。

           

          相手の気もちを分かることができる。

           

          そうだ、ここだ。

          ここに、そうかなあ、ほんとうにそうなのかなあという、

          問いが消えないのだ。

           

          たぶん、人と人の間でも、

          相手の気もちを分かる過程で、

          自分の気もちの投影が行われているのだ。

          人は見たいものを見ると、いうではないか。

          こうであってほしいという思いを、

          相手の言葉に投影するではないか。

          それでいうのなら、

          犬の気もちも、猫の気もちも、人の気もちも、

          同じ線上にあるのではないか。

           

          この、考えの行く先は、

          人には言葉がある。

          だから、言葉があるのだと。

          言葉に対して丁寧にあらねばならないと、

          そういうところに向かっていくのかもしれないけど。

           

          たぶん、きっと、私が、

          この、犬や猫には感情がないという言葉を、

          わりとの頻度で、意識の上によじ上らせるのは、

          それを言うのなら、

          犬や猫と、人間とを分けて考えるなと、

          いま、そう受け取っている相手の思いは、

          ほんとうに相手の心そのままなのか、

          そうだと思おうとしている自分の心が

          入り交じったものなのか。

          時に、そう自分に問い糺すことを忘れるなと。

          そういうことなのだと思う。

           

          JUGEMテーマ:エッセイ

          | 思索の記憶 | 07:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
          軸を緩めず。
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            突然のギフトのように飛び込んでくる

            言葉というのがあります。

            拓いていく道筋を見つけられずにいる考えに

            さっと一条の光を与えてくれるというか。

             

             

            「やり過ぎは弱さを呼び込む。」

             

            太極拳の先生の言葉です。

            生徒さんに指導されているのを

            傍らで聞いていて、ハッとしました。

             

            その動きの意味を求めるよりも先に、

            それらしいカタチをつけようとして

            バランスを崩している方の

            姿勢をなおしながら

            何気なくおっしゃった言葉ですが、

            それを聞いて、ほんとうに、ハッとしました。

             

            ちょうどアイデアを企画に育てていた最中で、

            ああもできるな、こうもできるぞと、

            盛り込みすぎた状態に陥って、

            どうしたものかと考え込んでいたところに

            その言葉が飛び込んで来たのでした。

             

            ひとつのアイデアを軸に、

            おもしろそうなことがどんどん広がっていく。

            それは、とてもいいこと。

            でも、それが膨らみすぎると、

            肝心の軸が緩んでいく。

             

            一番大切なことは、

            なぜ、そのアイデアが生まれたのか。

            それを企画に育てたいと思ったのか。

            その動機を自分の中で確かにすること。

            そして、まず、その動機に、素直になる。

             

            なぜ、何をするのか。

            誰に、何を届けたいのか。

            誰と、何を分かち合いたいのか。

            その先に、どんな景色が見たいのか。

            それは、

            自分がいたいと心から思えるような場所を、

            暮らしていきたいと思う環境をつくるために

            加担するような仕事になっているか。

             

            シンプルに、その問いかけに集中する。

            人の目をひくための羽飾りに気を取られずに、

            まずは、自分の中の軸に集中する。

             

            果たして、企画は気抜けするほど

            シンプルなものになった。

            そのシンプルさから膨らんでいく可能性を

            たっぷり孕んで、すごくシンプルなものになりました。

             

            自分のバランスを保てるポジションを知ってこそ

            自由に動ける。

             

            「やり過ぎは、弱さを呼び込む。」

             

            仕事とは何の結びつきもない場所で

            偶さか耳にしたこの言葉。

            師匠のようです。

             

             

            JUGEMテーマ:エッセイ

            | 思索の記憶 | 07:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
            人というのは、経験に育てられる。
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              人というのは、経験に育てられる。

               

              子どもの賢さに驚くたびに、

              大人と子どもの違いは経験の数に過ぎなくて、

              未熟さというのは

              子どもというものの属性ではなく

              経験の質や量に属している。

               

              そして、その経験には

              実体験もあれば、

              想像力、

              感受することや思考することで広がる

              精神的な経験もある。

              たとえ、カレンダー上の歳月を重ね

              大人の年齢になっていても。

              その経験が少なければ未熟なままだ。

               

              そして、というか、だからというか

              この未熟さもまた、

              人それぞれの経験によるもので、

              ある分野については群を抜いて秀でているが、

              それ以外のことは、からっきし、という人も少なくない。

               

              たとえば、大学時代のゼミの教授なんて、

              その専門分野では一目置かれた研究者で、

              学会での研究における弟子という方にお目にかかった際、

              そのお弟子さんの態度に

              研究者としていかに尊敬を集めているかが分かった。

              けど、大学で、ゼミの講義以外の活動になった時の

              なんというか、トンチンカンぶりったらなかった。

               

              たいていの場合、それがいい感じのスキというか、

              親しみやすさというか、人間味になって、

              好ましかったのだが、

              時に、たまに、

              そりゃあ、あんまりですよ、と

              生徒を困らせることも多々あった。

              大学の教授という、理知的な人物ですら、

              その専門分野において類を見ない経験値を持つ人物ですら、

              多分に、未熟さを含んでいるのだ。

               

              立派な教授の例え話の後に、

              自分の話を続けるのはちょっとおこがましいのだが、

              我が身を振り返ったってそうだ。

               

              年齢を重ねる毎に、年下の友人知人が増えてくる。

              そして、昔は、年上の友人知人から多くを学んでいたのが、

              いつしか、年下の彼ら彼女たちから、たくさんのことを学んでいる。

              そこには、私がしてこなかった経験があり、

              そこで培われた知識、感性、思考と行動力がある。

              だから、いつになっても、いつまでたっても、

              次々と表れる自分の未熟さに直面する。

               

              人というのは経験に、育てられる。

              そう思えば、この未熟さに直面することは

              なんとも恵まれた機会ではないかと。

               

              数年前に書きたいと思い始めながらも、

              そのテーマに向き合うだけの何かが

              まだ自分の中に育っていないと感じ。

              また、日々の慌ただしさにかまけて

              その、足りていない何かに向き合うことなく

              棚に上げていたテーマが、

              やっと自分ごととして、自分の臍に繋がった感じを得て

              書き始めたルポルタージュ。

               

              毎週木曜日に、このブログで連載している

              ルポルタージュ「日々を織る」を書くことで

              恵まれた人との出会いを振り返り。

               

              真面目さや粘り強さに、

              自分の信じることへのまっすぐな強さに、

              その器の大きさに、

              この人に出会えてよかったと思った、

              いくつもの瞬間を思い出し。

               

              自分ができる経験の限りを、限界を、

              ドンと突き破ってくれるこの、

              知り、感じ、書き表していくということに感謝して、

              ふと、自分への伝言としてノートに書き記してある、

               

              人というのは、経験に育てられる

               

              という言葉が、

              12 月の街を飾るイルミネーションにも負けない

              煌めきをもって、

              心に浮かんできたのです。

               

               

               

              JUGEMテーマ:エッセイ

              | 思索の記憶 | 07:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
              オルフェウスにも似た
              0

                 

                生きているうちには、小さな灯りを頼りに

                長いトンネルを進んでいるような時期がある。

                 

                足もとを照らせば、行く先を照らす光が足りず、

                向こうを照らせば、足もとが暗がりになる。

                そんな小さな灯りを頼りに、長いトンネルを歩いていく。

                 

                その心許なさといったら、

                缶コーヒー1本分ていどの酸素ボンベを背負って

                深度300メートルの海に潜っていくようだ。

                 

                たとえば、そのトンネルが、

                行きつ戻りつしながら1日に1000歩分、

                1000日をかけて進んで抜ける長さとする。

                 

                奥へ奥へと進んでいく時の不安、

                引き返せるものなら引き返したい、

                避けられるものなら避けたいという願い。

                入り口からも出口からも遠く離れた所での不安、

                閉塞感や諦めや、それに負けまいとするガムシャラさ。

                出口が見えはじめた時の不安、

                いっこうに距離が近づいてこないかのように感じる焦燥感。

                 

                その不安について考えていて、

                ギリシャ神話のオルフェウスを思い出した。

                 

                蛇に噛まれて命を落とした妻エウリュディケを

                自分のもとに返してほしいと

                黄泉の国の王ハデスに懇願し、

                地上に戻るまで、

                けして後ろに続くエウリュディケを振り返らないことを条件に、

                その願いを聞き入れられたオルフェウス。

                 

                オルフェウスはエウリュディケを連れて

                黄泉の国から地上へと、暗く細い道をひたすらに歩き続ける。

                そして、ようやく、地上の光が見えた時、

                オルフェウスの胸に不安が生まれる。

                自分の後ろに続くエウリュディケの足音が聞こえないのだ。

                 

                ほんとうに、エウリュディケはいるのか。

                自分とともに、ここに、いるのか。

                 

                やっと地上に着かんとするその時、

                オルフェウスは、その不安に抗えず、

                エウリュディケの姿を確かめようと、振り向いた、

                振り向いてしまった。

                 

                そこには、ハデスと約束を守りきれなかった

                オルフェウスを見つめながら、

                黄泉の国へと吸い込まれていく

                エウリュディケの姿があった。

                 

                 

                エウリュディケを一刻も早く、

                黄泉の国から連れて戻りたいと願う一心で

                道を進んでいた時には、

                足音が聞こえないことに気づくゆとりもなかったのかもしれない。

                あと一歩という所の安堵の気もちが、

                それに気づくゆとりを与えた。

                必死さに掻き消されていた不安を浮かび上がらせ、

                確かめずにはいられない衝動を打ち込んだ。

                地上への一歩を目前に、はやる気もちが誘惑を生んだ。

                そうではないだろうか。

                 

                そして、

                人が、人生の中でトンネルをくぐっている時も、

                これと少し、似ているかもしれないとも、思った。

                あと少しだと、出口が見えてきた瞬間から、

                トンネルを抜ける一歩までの、なんと長いことか。

                この、見えていて遠いということのキツさ。

                 

                諦めるな、ここが正念場だと、

                自分に言い聞かせながら、

                振り返らずに、

                見たかった光がそこにあるのだと、

                ただただ求め続けてきた光の方を見据えて、

                あと少し、一歩、一歩を重ねていけと。

                そして、最後の一歩を踏みしめてはじめて、

                光を浴びることができるのだと、

                心のなかで、何度でも、繰り返せと。

                 

                エウリュディケを取りかえす機会を永遠に失ってしまった

                オルフェウスの絶望と嘆きを思いながら、

                光の方を見る思いで、新しい年の来る方を見つめている。

                 

                 

                JUGEMテーマ:エッセイ

                | 思索の記憶 | 07:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
                摩擦という潤滑油
                0

                   

                  占星術とか詳しくないので

                  うろっとした理解なのですが、

                  水星が逆行すると

                  物事が停滞したり、後戻りしたりするとか。

                  で、たぶん、今時分からすこしの間、

                  その水星逆行時だそう。

                   

                  そうかあ、まあ、

                  潮の満ち引きが月の影響を受けるように、

                  地球という星の様々なところが

                  一緒に存在している色々な星からの

                  何かの影響を受けるんだろうなあ。

                   

                  なんていうか、摩擦が起こって、

                  キキキッといろんな所でブレーキがかかる、

                  そんな感じに受け止めて、

                  晴れの日には晴れの日の、

                  風の日には風の日の、

                  雨の日には雨の日の、

                  春には春の、夏には夏の、

                  秋には秋の、冬には冬の、

                  過ごし方をするように。

                  まあ、そんな時なりの過ごし方を

                  すればいいんじゃないかと。

                   

                  物事がひっくり返ろうが、滞ろうが、

                  そのおかげで

                  新しいアプローチの発見があるくらいに

                  どーんと構えればいいんじゃないの、と。

                  ノミの心臓、

                  もやしのヒゲ、

                  ちりめんじゃこのアクビ、くらいの

                  肝っ玉を奮い立たせているのです。

                   

                  そして、ふと、こうも思うようになりました。

                   

                  もしも、摩擦がなくて、ブレーキがなければ、

                  あちらこちら、暴走列車ばかりが走って

                  世の中えらいことになるではないかと。

                  摩擦があって、速度が落ちたり、

                  すこし下がって、周囲を確認してから、

                  もう一度走り出したりがあるから

                  景色を見るゆとりができて

                  いろんなことを見つけながら、

                  結局のところ、安全に、

                  行くべきところに行き着くんじゃないかと。

                   

                  仕事も、遊びも、人との関係も。

                  そう思えば、

                  摩擦を、うまく受け容れていくことで、

                  きっと、豊かに、続いていくんじゃないかと。

                   

                  そんなことを思ったりもするのです。

                   

                   

                  JUGEMテーマ:エッセイ

                  | 思索の記憶 | 07:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  あじさいと人のココロ
                  0

                     

                    この季節、街を歩いていて

                    たわわに咲いている紫陽花に出会うと、つい足が止まります。

                    急いでいる時も、すこし歩みがゆっくりになるくらいです。

                     

                    柔らかな雨足のなか、

                    青、白、ピンク、紫と、目もさめる艶やかさで

                    咲き誇る美しさったらありません。

                     

                    最近は、一年中、花屋の店先に並んでいますが、

                    やっぱり、この雨露に潤う艶やかさに、うっとりします。

                    紫陽花があるから梅雨が好きって言ってもいいくらい。

                     

                    ただ、「移り気」という花言葉だけ、

                    どうかと思っていたのです、すこし昔は。

                    でも、ある日、ふと思いました。

                     

                    移り気は人のサガじゃないかと。

                    心を決めては迷い、迷う自分を叱り。

                    定まらない移り気に誰よりも自分自身が翻弄されている。

                    それが人間ってものじゃないかと。

                     

                    そう気づいてから、

                    紫陽花が、もの言わず、ただただ静かに、

                    揺れ動く人の心に寄り添ってくれている気がして、

                    ますます愛おしくなりました。

                     

                     

                    ajisai

                     

                    JUGEMテーマ:エッセイ

                    | 思索の記憶 | 07:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    ボーダーレス
                    0

                       

                      アジア視野で本と本屋の今と未来を見つめたり、考えたりする。

                      そういう場に居合わせて、

                      本の魅力、本屋の引力について、昨日のブログで考えました。

                       

                      本と本屋と無限の扉

                       

                      本を要に、境界が消えていくことの心地よさ。

                      そこから広がったイメージは、

                       

                      マーブリングで水の上に表れる模様に見入っているような、

                      緩やかな力をひとつのきっかけに

                      多様な色がセッションで描いていく模様に

                      自分の感覚を委ねるような感覚とでも言いましょうか。

                       

                      自分自身が消えることはないけれど

                      思いもよらなかった自分の色やカタチが表れて、

                      それが、新しい自分にも見えるし、

                      もとからあった自分の個性を際立ててもいる。

                       

                      ボーダーレスから生まれる何かって

                      そういうことかなと。

                       

                      世界のあちらこちらで、

                      グローバルかアイソレーションか、ということが

                      注目と議論の的になってから、

                      白黒つけるように境界をはっきりさせた上で

                      力を合わせましょうというのと、

                      境界をとりはらい、

                      お互いを遺していきましょうというのと、

                      どんな風に違うのかと、

                      答えのない問いが自分の中にありました。

                       

                      その答えが見つかったわけではないですが、

                      本を要に、世界が広がり深まっていくということの

                      心地よさを感じてきて、

                      いま、

                      ボーダーレスって、いいんじゃないかと。

                       

                      それは、

                      けして抗うことできない時間という相手に

                      身を委ねるのに似て、

                      自分というものは、

                      絶対、最後まで消えずに自分としてあって、

                      それでも、やはり変わり続けている。

                       

                      それが時間なのか、三次元的な位置なのか、

                      違い方の差があるだけで、

                      とてもよく似ているものじゃないかと、

                      ボーダーレスについて、そんな風に

                      自分なりの考えが、今の自分のなかに生まれています。

                       

                      うん、ボーダーレスって、いいんじゃないかと思います。

                       

                       

                      sky upon the road to Roma

                       

                      JUGEMテーマ:エッセイ

                      | 思索の記憶 | 07:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
                      忘れられない ひまわり
                      0


                        モネのひまわり、という向日葵。
                        花びらも、花の芯もやわらかな黄色。
                        たくさん種類のあるひまわりの中でもとくに好き。

                        濃い山吹色の花びらの、
                        ギラギラ照りつける太陽にむかってそびえたつような大輪の向日葵も
                        夏だーって感じが好きですけど、
                        ときどき、ちょっと怖い。

                        幼稚園の夏休み。
                        泊まりに行った親戚の家で、
                        心斎橋の近くで生まれ育った町っ子が
                        畑の畦道を歩くとか、小川でザリガニを採るとか、
                        オタマジャクシを掌にのせてもらうとか、そういう経験をしたのです。

                        で、親戚のお兄ちゃんお姉ちゃんとその友だちにくっついての
                        ワイルドな遊びを終えて、
                        井戸水で冷やしたスイカが待っている家に帰る途中、
                        畑の真ん中に立つ向日葵を見つけたんでした。

                        ちびっこのなかにいてチビだった自分の背丈を
                        はるかに超えた数本の向日葵が、
                        たぶん倒れることのないように紐で結わえられてあり、
                        影ひとつない真夏の畑の真ん中で、
                        ぐったりを頭をたれるように、大輪の花を俯けていたんです。

                        自分の顔より大きいんじゃないかと思う花を下からのぞきこんだら、
                        黒々とした種がびっしりと詰まった花の真ん中があって、
                        すごーく怖かった。

                        立ち枯れたような姿の、ぐったりと俯いた花のまんなかに、
                        真っ黒な種がびっしり。
                        それは、自分が知っていた向日葵とは全く違う
                        グロテスクさで、衝撃でした。
                        ずっと向日葵が怖かったくらい。

                        トラウマかというほどの向日葵コワいが治ったのは、
                        昔の映画にはまっていた20代に、映画の「ひまわり」で、
                        北の国のやわらかな夏の日差しの下、
                        咲き乱れるひまわり畑の映像を見た時…だから。
                        ずーいぶん長く続いていたわけです。

                        だから、今もまだ、花の真ん中が黒いひまわりは時々ちょっと怖い。
                        あのグロテスクさは、生命あるもののほんとうのところなんだろうな…と
                        思いつつも、まだ怖い。

                        咲き誇る華々しさそのままの姿に立ち枯れたシルエット。
                        陽射しがやわらぎ、水を得たら、
                        むっくりと、また頭をもたげるんじゃないかと思う花。
                        それが終わっていくにしろ、甦るにしろ、
                        そこにあったのは、とにもかくにもの生命力だったんじゃないかと。

                        そんなにまでコワいと思ったのは、
                        生身のひまわりの意志のようなものを
                        じりじりとした太陽を背に、こちらを見下ろす花に見たからじゃあないかと。
                        いまもまだ時に思い出すあの光景について考えて、そう思う。

                         

                        モネのひまわり_small.jpg

                         

                         

                        JUGEMテーマ:エッセイ

                        | 思索の記憶 | 16:36 | comments(0) | trackbacks(0) |