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ぱんせどフランセ

思いつくまま、たまに仕事のことなども。

福祉の現場に生きる人たちへのインタビューをもとに書いた
ルポルタージュ「日々を織る」も連載しています。
犬の気もち、猫の気もち、人の気もち。
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    そうかなあ、ほんとうにそうかなあと、

    ずっと考え続けているコトというのがある。

    考え続けているといっても、

    朝から晩まで四六時中、

    1年365日、年がら年中、

    寸暇を惜しまず考え続けているわけではない。

    ただ、いつまでたっても、

    そうかなあ、ほんとうにそうなのかなあと、

    ふとした拍子に、考えるつもりもなかったのに

    ついつい考えてしまう。

     

    胸の内、というのか、頭の片隅、というのか

    ともかく、自分のなかに、そういうものが、

    整理整頓とはとんと無縁に放り込んだ引き出しがある。

    で、その引き出しのわりと上の方にある、

    けっこうな頻度で意識の上によじ上ってくる

    そうかなあ、ほんとうにそうかなあというコトの1つが、

     

    犬や猫に感情はない、という、ある人の意見。

     

    それは、どうかなあ。

     

    人間意外に感情がないというのは、

    なんと傲慢で偏った考えではあるまいか。

    その、極端な意見を、

    文字面どおりに受け取るというのは、あまりに浅い。

    それは、どうかなあ、という反射的に浮かんだ反駁を

    胸の下方へひっこめて、その言葉の真意を問うてみた。

     

    と、答えは、こうだった。

     

    犬や猫が、こう感じている、思っている、というのは

    犬や猫を見ている人間が、

    こう感じているんだろう、思っているのだろうと、

    考え、憶測している感情に過ぎない。

    だから、それは、

    人の感情であって、犬や猫の感情ではない。

     

    なるほど。

    たしかに、犬や猫が、自分の気持ちを

    はっきりと言葉にしてそう言ったわけではない。

    犬や猫のものとして語られている、その感情は、

    そうだろう、そうに違いない、そうであってほしいと思う

    人間の感情の投影なのかもしれない。

     

    友好的な態度、攻撃的な態度という

    目に見える反応から、

    その時の気もちが、こちらに対して

    ポジティブなのか、ネガティブなのか。

    そこまでは、たぶん、間違わずに汲み取れているだろう。

    が、その先の、細かな感情の読み取りは、

    その感情を受け取る側の心次第だと言える。

     

    それを、端的に、やや乱暴なまでに

    端的に言い放った言葉が、

    犬は猫に、感情はない。

     

    とまあ、相手の言わんとする

    この言葉の意味については、

    まあ、なるほどねと、一応、分かったと、消化した。

    が、この言葉、依然として、

    答えがわからないままの問いを放り込んだ引き出しに

    居座っている。

     

    何故か。

     

    その、感情の投影を言うのなら、

    人と人の間だって、同じことではないか。

    その思索でものを言うのなら、

    人の感情だって、曖昧なものだ。

     

    たしかに、人は言葉で自分の感情を伝える。

    相手の言葉を頼りに、相手の感情を知ることができる。

    相手の言葉を辿って、相手の気もちを分かることができる。

     

    相手の気もちを分かることができる。

     

    そうだ、ここだ。

    ここに、そうかなあ、ほんとうにそうなのかなあという、

    問いが消えないのだ。

     

    たぶん、人と人の間でも、

    相手の気もちを分かる過程で、

    自分の気もちの投影が行われているのだ。

    人は見たいものを見ると、いうではないか。

    こうであってほしいという思いを、

    相手の言葉に投影するではないか。

    それでいうのなら、

    犬の気もちも、猫の気もちも、人の気もちも、

    同じ線上にあるのではないか。

     

    この、考えの行く先は、

    人には言葉がある。

    だから、言葉があるのだと。

    言葉に対して丁寧にあらねばならないと、

    そういうところに向かっていくのかもしれないけど。

     

    たぶん、きっと、私が、

    この、犬や猫には感情がないという言葉を、

    わりとの頻度で、意識の上によじ上らせるのは、

    それを言うのなら、

    犬や猫と、人間とを分けて考えるなと、

    いま、そう受け取っている相手の思いは、

    ほんとうに相手の心そのままなのか、

    そうだと思おうとしている自分の心が

    入り交じったものなのか。

    時に、そう自分に問い糺すことを忘れるなと。

    そういうことなのだと思う。

     

    JUGEMテーマ:エッセイ

    | 思索の記憶 | 07:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
    軸を緩めず。
    0

       

      突然のギフトのように飛び込んでくる

      言葉というのがあります。

      拓いていく道筋を見つけられずにいる考えに

      さっと一条の光を与えてくれるというか。

       

       

      「やり過ぎは弱さを呼び込む。」

       

      太極拳の先生の言葉です。

      生徒さんに指導されているのを

      傍らで聞いていて、ハッとしました。

       

      その動きの意味を求めるよりも先に、

      それらしいカタチをつけようとして

      バランスを崩している方の

      姿勢をなおしながら

      何気なくおっしゃった言葉ですが、

      それを聞いて、ほんとうに、ハッとしました。

       

      ちょうどアイデアを企画に育てていた最中で、

      ああもできるな、こうもできるぞと、

      盛り込みすぎた状態に陥って、

      どうしたものかと考え込んでいたところに

      その言葉が飛び込んで来たのでした。

       

      ひとつのアイデアを軸に、

      おもしろそうなことがどんどん広がっていく。

      それは、とてもいいこと。

      でも、それが膨らみすぎると、

      肝心の軸が緩んでいく。

       

      一番大切なことは、

      なぜ、そのアイデアが生まれたのか。

      それを企画に育てたいと思ったのか。

      その動機を自分の中で確かにすること。

      そして、まず、その動機に、素直になる。

       

      なぜ、何をするのか。

      誰に、何を届けたいのか。

      誰と、何を分かち合いたいのか。

      その先に、どんな景色が見たいのか。

      それは、

      自分がいたいと心から思えるような場所を、

      暮らしていきたいと思う環境をつくるために

      加担するような仕事になっているか。

       

      シンプルに、その問いかけに集中する。

      人の目をひくための羽飾りに気を取られずに、

      まずは、自分の中の軸に集中する。

       

      果たして、企画は気抜けするほど

      シンプルなものになった。

      そのシンプルさから膨らんでいく可能性を

      たっぷり孕んで、すごくシンプルなものになりました。

       

      自分のバランスを保てるポジションを知ってこそ

      自由に動ける。

       

      「やり過ぎは、弱さを呼び込む。」

       

      仕事とは何の結びつきもない場所で

      偶さか耳にしたこの言葉。

      師匠のようです。

       

       

      JUGEMテーマ:エッセイ

      | 思索の記憶 | 07:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
      人というのは、経験に育てられる。
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        人というのは、経験に育てられる。

         

        子どもの賢さに驚くたびに、

        大人と子どもの違いは経験の数に過ぎなくて、

        未熟さというのは

        子どもというものの属性ではなく

        経験の質や量に属している。

         

        そして、その経験には

        実体験もあれば、

        想像力、

        感受することや思考することで広がる

        精神的な経験もある。

        たとえ、カレンダー上の歳月を重ね

        大人の年齢になっていても。

        その経験が少なければ未熟なままだ。

         

        そして、というか、だからというか

        この未熟さもまた、

        人それぞれの経験によるもので、

        ある分野については群を抜いて秀でているが、

        それ以外のことは、からっきし、という人も少なくない。

         

        たとえば、大学時代のゼミの教授なんて、

        その専門分野では一目置かれた研究者で、

        学会での研究における弟子という方にお目にかかった際、

        そのお弟子さんの態度に

        研究者としていかに尊敬を集めているかが分かった。

        けど、大学で、ゼミの講義以外の活動になった時の

        なんというか、トンチンカンぶりったらなかった。

         

        たいていの場合、それがいい感じのスキというか、

        親しみやすさというか、人間味になって、

        好ましかったのだが、

        時に、たまに、

        そりゃあ、あんまりですよ、と

        生徒を困らせることも多々あった。

        大学の教授という、理知的な人物ですら、

        その専門分野において類を見ない経験値を持つ人物ですら、

        多分に、未熟さを含んでいるのだ。

         

        立派な教授の例え話の後に、

        自分の話を続けるのはちょっとおこがましいのだが、

        我が身を振り返ったってそうだ。

         

        年齢を重ねる毎に、年下の友人知人が増えてくる。

        そして、昔は、年上の友人知人から多くを学んでいたのが、

        いつしか、年下の彼ら彼女たちから、たくさんのことを学んでいる。

        そこには、私がしてこなかった経験があり、

        そこで培われた知識、感性、思考と行動力がある。

        だから、いつになっても、いつまでたっても、

        次々と表れる自分の未熟さに直面する。

         

        人というのは経験に、育てられる。

        そう思えば、この未熟さに直面することは

        なんとも恵まれた機会ではないかと。

         

        数年前に書きたいと思い始めながらも、

        そのテーマに向き合うだけの何かが

        まだ自分の中に育っていないと感じ。

        また、日々の慌ただしさにかまけて

        その、足りていない何かに向き合うことなく

        棚に上げていたテーマが、

        やっと自分ごととして、自分の臍に繋がった感じを得て

        書き始めたルポルタージュ。

         

        毎週木曜日に、このブログで連載している

        ルポルタージュ「日々を織る」を書くことで

        恵まれた人との出会いを振り返り。

         

        真面目さや粘り強さに、

        自分の信じることへのまっすぐな強さに、

        その器の大きさに、

        この人に出会えてよかったと思った、

        いくつもの瞬間を思い出し。

         

        自分ができる経験の限りを、限界を、

        ドンと突き破ってくれるこの、

        知り、感じ、書き表していくということに感謝して、

        ふと、自分への伝言としてノートに書き記してある、

         

        人というのは、経験に育てられる

         

        という言葉が、

        12 月の街を飾るイルミネーションにも負けない

        煌めきをもって、

        心に浮かんできたのです。

         

         

         

        JUGEMテーマ:エッセイ

        | 思索の記憶 | 07:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
        オルフェウスにも似た
        0

           

          生きているうちには、小さな灯りを頼りに

          長いトンネルを進んでいるような時期がある。

           

          足もとを照らせば、行く先を照らす光が足りず、

          向こうを照らせば、足もとが暗がりになる。

          そんな小さな灯りを頼りに、長いトンネルを歩いていく。

           

          その心許なさといったら、

          缶コーヒー1本分ていどの酸素ボンベを背負って

          深度300メートルの海に潜っていくようだ。

           

          たとえば、そのトンネルが、

          行きつ戻りつしながら1日に1000歩分、

          1000日をかけて進んで抜ける長さとする。

           

          奥へ奥へと進んでいく時の不安、

          引き返せるものなら引き返したい、

          避けられるものなら避けたいという願い。

          入り口からも出口からも遠く離れた所での不安、

          閉塞感や諦めや、それに負けまいとするガムシャラさ。

          出口が見えはじめた時の不安、

          いっこうに距離が近づいてこないかのように感じる焦燥感。

           

          その不安について考えていて、

          ギリシャ神話のオルフェウスを思い出した。

           

          蛇に噛まれて命を落とした妻エウリュディケを

          自分のもとに返してほしいと

          黄泉の国の王ハデスに懇願し、

          地上に戻るまで、

          けして後ろに続くエウリュディケを振り返らないことを条件に、

          その願いを聞き入れられたオルフェウス。

           

          オルフェウスはエウリュディケを連れて

          黄泉の国から地上へと、暗く細い道をひたすらに歩き続ける。

          そして、ようやく、地上の光が見えた時、

          オルフェウスの胸に不安が生まれる。

          自分の後ろに続くエウリュディケの足音が聞こえないのだ。

           

          ほんとうに、エウリュディケはいるのか。

          自分とともに、ここに、いるのか。

           

          やっと地上に着かんとするその時、

          オルフェウスは、その不安に抗えず、

          エウリュディケの姿を確かめようと、振り向いた、

          振り向いてしまった。

           

          そこには、ハデスと約束を守りきれなかった

          オルフェウスを見つめながら、

          黄泉の国へと吸い込まれていく

          エウリュディケの姿があった。

           

           

          エウリュディケを一刻も早く、

          黄泉の国から連れて戻りたいと願う一心で

          道を進んでいた時には、

          足音が聞こえないことに気づくゆとりもなかったのかもしれない。

          あと一歩という所の安堵の気もちが、

          それに気づくゆとりを与えた。

          必死さに掻き消されていた不安を浮かび上がらせ、

          確かめずにはいられない衝動を打ち込んだ。

          地上への一歩を目前に、はやる気もちが誘惑を生んだ。

          そうではないだろうか。

           

          そして、

          人が、人生の中でトンネルをくぐっている時も、

          これと少し、似ているかもしれないとも、思った。

          あと少しだと、出口が見えてきた瞬間から、

          トンネルを抜ける一歩までの、なんと長いことか。

          この、見えていて遠いということのキツさ。

           

          諦めるな、ここが正念場だと、

          自分に言い聞かせながら、

          振り返らずに、

          見たかった光がそこにあるのだと、

          ただただ求め続けてきた光の方を見据えて、

          あと少し、一歩、一歩を重ねていけと。

          そして、最後の一歩を踏みしめてはじめて、

          光を浴びることができるのだと、

          心のなかで、何度でも、繰り返せと。

           

          エウリュディケを取りかえす機会を永遠に失ってしまった

          オルフェウスの絶望と嘆きを思いながら、

          光の方を見る思いで、新しい年の来る方を見つめている。

           

           

          JUGEMテーマ:エッセイ

          | 思索の記憶 | 07:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
          摩擦という潤滑油
          0

             

            占星術とか詳しくないので

            うろっとした理解なのですが、

            水星が逆行すると

            物事が停滞したり、後戻りしたりするとか。

            で、たぶん、今時分からすこしの間、

            その水星逆行時だそう。

             

            そうかあ、まあ、

            潮の満ち引きが月の影響を受けるように、

            地球という星の様々なところが

            一緒に存在している色々な星からの

            何かの影響を受けるんだろうなあ。

             

            なんていうか、摩擦が起こって、

            キキキッといろんな所でブレーキがかかる、

            そんな感じに受け止めて、

            晴れの日には晴れの日の、

            風の日には風の日の、

            雨の日には雨の日の、

            春には春の、夏には夏の、

            秋には秋の、冬には冬の、

            過ごし方をするように。

            まあ、そんな時なりの過ごし方を

            すればいいんじゃないかと。

             

            物事がひっくり返ろうが、滞ろうが、

            そのおかげで

            新しいアプローチの発見があるくらいに

            どーんと構えればいいんじゃないの、と。

            ノミの心臓、

            もやしのヒゲ、

            ちりめんじゃこのアクビ、くらいの

            肝っ玉を奮い立たせているのです。

             

            そして、ふと、こうも思うようになりました。

             

            もしも、摩擦がなくて、ブレーキがなければ、

            あちらこちら、暴走列車ばかりが走って

            世の中えらいことになるではないかと。

            摩擦があって、速度が落ちたり、

            すこし下がって、周囲を確認してから、

            もう一度走り出したりがあるから

            景色を見るゆとりができて

            いろんなことを見つけながら、

            結局のところ、安全に、

            行くべきところに行き着くんじゃないかと。

             

            仕事も、遊びも、人との関係も。

            そう思えば、

            摩擦を、うまく受け容れていくことで、

            きっと、豊かに、続いていくんじゃないかと。

             

            そんなことを思ったりもするのです。

             

             

            JUGEMテーマ:エッセイ

            | 思索の記憶 | 07:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
            あじさいと人のココロ
            0

               

              この季節、街を歩いていて

              たわわに咲いている紫陽花に出会うと、つい足が止まります。

              急いでいる時も、すこし歩みがゆっくりになるくらいです。

               

              柔らかな雨足のなか、

              青、白、ピンク、紫と、目もさめる艶やかさで

              咲き誇る美しさったらありません。

               

              最近は、一年中、花屋の店先に並んでいますが、

              やっぱり、この雨露に潤う艶やかさに、うっとりします。

              紫陽花があるから梅雨が好きって言ってもいいくらい。

               

              ただ、「移り気」という花言葉だけ、

              どうかと思っていたのです、すこし昔は。

              でも、ある日、ふと思いました。

               

              移り気は人のサガじゃないかと。

              心を決めては迷い、迷う自分を叱り。

              定まらない移り気に誰よりも自分自身が翻弄されている。

              それが人間ってものじゃないかと。

               

              そう気づいてから、

              紫陽花が、もの言わず、ただただ静かに、

              揺れ動く人の心に寄り添ってくれている気がして、

              ますます愛おしくなりました。

               

               

              ajisai

               

              JUGEMテーマ:エッセイ

              | 思索の記憶 | 07:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
              ボーダーレス
              0

                 

                アジア視野で本と本屋の今と未来を見つめたり、考えたりする。

                そういう場に居合わせて、

                本の魅力、本屋の引力について、昨日のブログで考えました。

                 

                本と本屋と無限の扉

                 

                本を要に、境界が消えていくことの心地よさ。

                そこから広がったイメージは、

                 

                マーブリングで水の上に表れる模様に見入っているような、

                緩やかな力をひとつのきっかけに

                多様な色がセッションで描いていく模様に

                自分の感覚を委ねるような感覚とでも言いましょうか。

                 

                自分自身が消えることはないけれど

                思いもよらなかった自分の色やカタチが表れて、

                それが、新しい自分にも見えるし、

                もとからあった自分の個性を際立ててもいる。

                 

                ボーダーレスから生まれる何かって

                そういうことかなと。

                 

                世界のあちらこちらで、

                グローバルかアイソレーションか、ということが

                注目と議論の的になってから、

                白黒つけるように境界をはっきりさせた上で

                力を合わせましょうというのと、

                境界をとりはらい、

                お互いを遺していきましょうというのと、

                どんな風に違うのかと、

                答えのない問いが自分の中にありました。

                 

                その答えが見つかったわけではないですが、

                本を要に、世界が広がり深まっていくということの

                心地よさを感じてきて、

                いま、

                ボーダーレスって、いいんじゃないかと。

                 

                それは、

                けして抗うことできない時間という相手に

                身を委ねるのに似て、

                自分というものは、

                絶対、最後まで消えずに自分としてあって、

                それでも、やはり変わり続けている。

                 

                それが時間なのか、三次元的な位置なのか、

                違い方の差があるだけで、

                とてもよく似ているものじゃないかと、

                ボーダーレスについて、そんな風に

                自分なりの考えが、今の自分のなかに生まれています。

                 

                うん、ボーダーレスって、いいんじゃないかと思います。

                 

                 

                sky upon the road to Roma

                 

                JUGEMテーマ:エッセイ

                | 思索の記憶 | 07:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
                忘れられない ひまわり
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                  モネのひまわり、という向日葵。
                  花びらも、花の芯もやわらかな黄色。
                  たくさん種類のあるひまわりの中でもとくに好き。

                  濃い山吹色の花びらの、
                  ギラギラ照りつける太陽にむかってそびえたつような大輪の向日葵も
                  夏だーって感じが好きですけど、
                  ときどき、ちょっと怖い。

                  幼稚園の夏休み。
                  泊まりに行った親戚の家で、
                  心斎橋の近くで生まれ育った町っ子が
                  畑の畦道を歩くとか、小川でザリガニを採るとか、
                  オタマジャクシを掌にのせてもらうとか、そういう経験をしたのです。

                  で、親戚のお兄ちゃんお姉ちゃんとその友だちにくっついての
                  ワイルドな遊びを終えて、
                  井戸水で冷やしたスイカが待っている家に帰る途中、
                  畑の真ん中に立つ向日葵を見つけたんでした。

                  ちびっこのなかにいてチビだった自分の背丈を
                  はるかに超えた数本の向日葵が、
                  たぶん倒れることのないように紐で結わえられてあり、
                  影ひとつない真夏の畑の真ん中で、
                  ぐったりを頭をたれるように、大輪の花を俯けていたんです。

                  自分の顔より大きいんじゃないかと思う花を下からのぞきこんだら、
                  黒々とした種がびっしりと詰まった花の真ん中があって、
                  すごーく怖かった。

                  立ち枯れたような姿の、ぐったりと俯いた花のまんなかに、
                  真っ黒な種がびっしり。
                  それは、自分が知っていた向日葵とは全く違う
                  グロテスクさで、衝撃でした。
                  ずっと向日葵が怖かったくらい。

                  トラウマかというほどの向日葵コワいが治ったのは、
                  昔の映画にはまっていた20代に、映画の「ひまわり」で、
                  北の国のやわらかな夏の日差しの下、
                  咲き乱れるひまわり畑の映像を見た時…だから。
                  ずーいぶん長く続いていたわけです。

                  だから、今もまだ、花の真ん中が黒いひまわりは時々ちょっと怖い。
                  あのグロテスクさは、生命あるもののほんとうのところなんだろうな…と
                  思いつつも、まだ怖い。

                  咲き誇る華々しさそのままの姿に立ち枯れたシルエット。
                  陽射しがやわらぎ、水を得たら、
                  むっくりと、また頭をもたげるんじゃないかと思う花。
                  それが終わっていくにしろ、甦るにしろ、
                  そこにあったのは、とにもかくにもの生命力だったんじゃないかと。

                  そんなにまでコワいと思ったのは、
                  生身のひまわりの意志のようなものを
                  じりじりとした太陽を背に、こちらを見下ろす花に見たからじゃあないかと。
                  いまもまだ時に思い出すあの光景について考えて、そう思う。

                   

                  モネのひまわり_small.jpg

                   

                   

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